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1156年 保元の乱が起こる [年号のゴロ合わせ]

今日は、保元元年(ほうげんがんねん)、西暦1156年に起きた
保元の乱(ほうげんのらん)を取り上げます。

保元の乱とは、
兄・崇徳上皇(すとくじょうこう)と、弟・後白河天皇(ごしらかわてんのう)の対立に、
兄・藤原忠通(ふじわらのただみち)と、弟・藤原頼長(ふじわらのよりなが)の対立が重なり、
それぞれに武士である平氏・源氏が加わって大規模な武力衝突に発展してしまった、
壮絶な兄弟ゲンカです。

最初に、対立関係を表にまとめておきましょう。

1156-1.jpg

う~ん、登場人物が多くてすでにややこしいですね…
なので、今回は天皇家の対立に焦点をしぼって、保元の乱を見ることにしましょう。
崇徳上皇と後白河天皇、この2人の対立の原点は、
どうやら彼らのお父さんである鳥羽天皇(とばてんのう)にあるようです。



鳥羽天皇は、1107年にお父さんである堀河天皇(ほりかわてんのう)の死去にともない即位します。
このときわずか5歳。
よって、おじいちゃんである白河法皇(しらかわほうおう、1096年ごろ出家)が院政(いんせい)をおこないます。

それから16年後、鳥羽天皇は息子に天皇の位を譲ります。
即位した崇徳天皇(すとくてんのう)は、これまた5歳。
もちろん院政が敷かれます。
院政をおこなったのは、崇徳天皇のお父さんである鳥羽上皇(とばじょうこう)ではなく、
これまた白河法皇です。
崇徳天皇にとっては、ひいおじいちゃんにあたる人物です。

こんな風に白河法皇がずぅぅーーーっと君臨し続けるので、
鳥羽上皇は、天皇としても、上皇としても、まったく権力を握れない日々を送ります。
ちょっとじいさん!いい加減 引退してくれよ!!って感じですよね。

といっても、じいさんの時代がいつまでも続くわけではありません。
1129年、白河法皇は77歳でこの世を去るのです。

さぁ!
ついに鳥羽上皇が権力を握る日がやって来ましたよ!!

てなわけで、鳥羽上皇はさっそく院政を敷き、白河法皇の側近たちを次々と排除します。
そして、1141年には崇徳天皇に譲位を迫り、息子の近衛天皇(このえてんのう)を即位させます。
近衛天皇は、このとき3歳。
院政をおこなうのは、もちろん近衛天皇のお父さんである鳥羽上皇です。

ところが…
1155年、近衛天皇は17歳の若さでこの世を去ってしまいます…

次に即位したのは、近衛天皇のお兄ちゃんにあたる後白河天皇です。
鳥羽法皇(とばほうおう、1142年に出家して法皇となる)としては、
孫(後白河天皇の息子、のちの二条天皇(にじょうてんのう))を天皇にしたかったのですが、
さすがに天皇になったことのないお父さんを差し置いて即位しちゃいかんだろ…ということで、
急遽、即位することになったのです。
そんな後白河天皇は、このとき29歳。
かなりイイトシなのですが、鳥羽法皇は院政を継続します。

うーん、なんだか人間関係がややこしくなってきたので、
ここでちょっと系図を確認するとしましょう。

1156-1-2.jpg

崇徳上皇・近衛天皇・後白河天皇は、みーんな鳥羽法皇の息子とゆーことですよ。
いや~、ややこしいですね~…

ここまでの流れは理解できましたか?
では、続きを見ていきましょう。

*   *   *

1156年7月2日、鳥羽法皇が亡くなります。

この直前、息子である崇徳上皇は、鳥羽法皇のお見舞いに出かけます。
ところが、お父さんに面会を拒否されてしまうのです!
しかも、「私が死んでも崇徳上皇に遺体は見せるな」という遺言つき!!

なにそれ!
ちょっとヒドくないですか!!

実は、鳥羽法皇と崇徳上皇の関係は、かなり前からギスギスしていたのです。
ここで、崇徳上皇が天皇の位を譲ったときに話を戻してみましょう。

*   *   *

崇徳天皇は、白河法皇の死後、鳥羽上皇から譲位を迫られ、
かわって近衛天皇が即位したんでしたよね。

近衛天皇は崇徳上皇の弟ですが、崇徳上皇の奥さんの養子になっていたので、
ながらく「皇太子」のポジションにありました。
ところが実際、近衛天皇が即位したときには、
「皇太弟」のポジションから天皇になった、という風に変わっていたのです!
崇徳上皇の弟、つまり鳥羽上皇の息子として即位した、ということです。
結果、院政は天皇のお父さんである鳥羽上皇がおこなうこととなり、
天皇のお兄ちゃんである崇徳上皇は、権力を手にすることはできませんでした。

その後、近衛天皇は若くして亡くなったのでしたね。
次の天皇として有力視されたのは、崇徳上皇の息子でした。
もし彼が即位すれば、崇徳上皇は天皇のお父さんなので、院政をおこなえる可能性がでてきます。

ところが鳥羽法皇は、崇徳上皇の弟である後白河天皇を即位させたのでしたね。
さらに、後白河天皇の息子(のちの二条天皇)を皇太子にたて、
次の天皇とすることも決定しました。

鳥羽法皇によって、
崇徳上皇の息子が天皇になること、
そして崇徳上皇が院政をおこなう可能性は完全に絶たれてしまったのです。
そこに死の間際の面会拒否とあの遺言ですよ。

いやぁ~…崇徳上皇マジでかわいそすぎます…
鳥羽法皇は、崇徳上皇のナニが気にいらないとゆーのでしょう!

1156-3.jpg

ここで1つ、なんとも怪しいウワサ話を紹介しましょう…
(以降、便宜上、「崇徳上皇」で名称を統一します)

崇徳上皇のお母さんは、
待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし、または、たいけんもんいんたまこ)といいます。
白河法皇に育てられた女性で、1117年に鳥羽天皇と結婚し、7人の子を産みます。
崇徳上皇は、その最初の子どもです。

ところが。
ところがですよ。

崇徳上皇のほんとうのお父さんは白河法皇である。

なんてゆーウワサがたつのです!
鳥羽天皇からすると、奥さんと、自分のおじいちゃんとの間にできた子です。
うぅぅぅーん、ちょっと相当キモいですよね…

1156-4.jpg

そんな息子に譲位した鳥羽上皇は、
やがて美福門院得子(びふくもんいんなりこ)という別の奥さんを愛するようになります。
そして、彼女が産んだカワイイ我が子を即位させるため、崇徳天皇に譲位を迫ったというわけです。

このウワサは、鎌倉時代に成立した『古事談(こじだん)』という本にしか載っていないので、
真偽のほどは分かりませんし、当時どれだけ広まったのかも分かりません。
でも、鳥羽法皇の崇徳上皇に対する態度を見ると、
「ウワサは本当なのかも…」と思ってしまいますね…

*   *   *

鳥羽法皇が亡くなったところに話を戻しましょう。

鳥羽法皇が亡くなり、なんかもういろいろショックを受けている崇徳上皇に、
さらなる追い打ちがかかります。

崇徳上皇と藤原頼長が手を結んで反乱を起こそうとしている。

というウワサが流れるのです。

藤原頼長とは、お兄ちゃんである関白の藤原忠通と対立している左大臣です。
(この兄弟の対立については、平安時代(16)のまとめプリントで詳しく述べる予定です)
またウワサかぃ!と突っ込みたくなりますが、ウワサほど怖いものはありません…
これにより、藤原頼長は財産を没収されてしまうのです。
もはや謀反人(むほんにん)扱いです。

このままでは自分も危ないと悟った崇徳上皇は、自宅を脱出します。
藤原頼長はそんな崇徳上皇と合流し、
ここに平忠正(たいらのただまさ)、源為義(みなもとのためよし)・源為朝(みなもとのためとも)親子といった武士が加わります。

こうした崇徳上皇側の動きに、後白河天皇と藤原忠通もすかさず
平清盛(たいらのきよもり)や源義朝(みなもとのよしとも)などの武士を集めます。

そして1156年7月11日の未明、両勢力は激突するのです。
世にいう保元の乱です。

勝敗は、わずか数時間で決します。
勝利したのは、後白河天皇側です。

敗北した崇徳上皇は、投降のすえ讃岐国(さぬきのくに)に流罪となり、
平忠正と源為義は斬首、源為朝は伊豆大島(いずおおしま)に流罪となります。
なお、藤原頼長は戦いのさなかに命を落としています。

1156-5.png

ちなみに、
天皇・上皇の流罪は、恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)以来(淳仁天皇が淡路島に流罪)、
死刑の執行は薬子の変(くすこのへん)以来(藤原仲成が処刑)のことです。

ここで、保元の乱についての史料を見ておきましょう。

保元元年(1156年)七月二日、〔1   〕院失セサセ給(たまひ)テ後、日本国ノ乱逆(〔2   〕のこと)ト云(いう)コトハヲコリテ後、ムサノ世ニナリニケルナリ
(出典:慈円(じえん)『〔3   〕』)


空欄にあてはまる語句は分かりましたか?
 1…鳥羽(鳥羽法皇の死去→保元の乱の勃発、この順序を押さえておけば答えられますね)
 2…保元の乱
 3…愚管抄(ぐかんしょう、鎌倉文化で紹介する歴史書)

この史料のなかで重要なのは、「ムサノ世」という言葉です。
中央政界における争いを、武士の力で解決した保元の乱は、
貴族の無力さと武士の実力を世に広め、武士が政界に進出するきっかけを与えました。
つまり日本は、保元の乱によって武士が政権をとる「武者の世」となったのです。

*   *   *

余談ではありますが、最後に崇徳上皇の讃岐国での様子を見ておきましょう…

ところで、讃岐国ってどこか分かりますか?
讃岐と言えば…
そう!うどんで有名ですよね!!さぬきうどん!!!
「それでも分からん!」という人は、飛鳥時代(11)を復習してください。

讃岐国に流罪となった崇徳上皇は、仏教を深く信仰するようになり、
たくさんの写経(しゃきょう、お経を書写すること)をおこないます。
そして、保元の乱で亡くなった人々の供養(くよう)と、自身の反省の証にしてほしい…と、
それらをまとめて朝廷に送ります。

ところが!
ところがですよ!!

後白河天皇は、「これ、呪い(のろい)が込められてるんちゃうの!」とキモがり、
ぜんぶまとめて崇徳上皇のもとに送り返すよう命じるのです!!!

ちょ!
後白河!!

あかん!
それは絶対にあかん!!

でもホントに送り返しちゃったんですよねー…

もちろん崇徳上皇は怒り狂います。
その怒りはすさまじく、舌を噛み切り、その血でもって
「大魔王になって、天皇を没落させ、民をこの国の王にしてやる」
というような内容を、送り返されてきたお経に書いたほどだったとか。

その後、崇徳上皇は讃岐国で生涯を閉じるのですが、
亡くなるまで髪の毛や爪を伸ばし続けて天狗になった、とか、
崇徳上皇の遺体をいれた棺(ひつぎ)から血があふれ出した、とか、
なんとも怖いウワサが残っています。
やがて崇徳上皇は、怨霊(おんりょう)として人々からおそれられるようになるのです。

崇徳上皇の魂が京都に戻るのは、明治時代の直前のことです。
明治天皇が即位する際、京都に神社を建てて崇徳上皇を祀(まつ)ったのです。
平安時代末期に天皇が武士に政権を奪われたのは、崇徳上皇の呪いによるものだ、
という考えが幕末期まで続いていたのでしょう…
大政奉還によって政権が天皇(朝廷)に返上されたタイミングで、
崇徳上皇はようやく京都に帰ることができたのです。

なお、崇徳上皇は讃岐国で2人の子どもに恵まれた、
というほっこりエピソードも残っています。
幸せな面もあったんだね…ホントに良かった……(涙)

長くなりました。
最後にゴロ合わせを載せておきましょう。

1156年.jpg

キレていい、キレていいよね、崇徳上皇…

すみっこにいるマッスルキャラが気になると思いますが(笑)、
こちらについては後日触れたいと思います。



次回は、平治の乱(へいじのらん)をゴロ合わせとともにお届けします。
更新が滞っていること、なにとぞご了承ください…

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1086年 院政を開始する [年号のゴロ合わせ]

前回は、延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)を取り上げました。
これを発令した後三条天皇(ごさんじょうてんのう)にかわって即位したのは、
息子の白河天皇(しらかわてんのう)です。

白河天皇は、お父さんにならって親政(しんせい)をおこないますが、
1086年、息子の堀河天皇(ほりかわてんのう)に位を譲り、
上皇(じょうこう)として院政(いんせい)を開始します。

白河上皇(しらかわじょうこう)は、なぜ院政を始めることにしたのでしょうか。



白河天皇は即位するとき、まだ子どもがいなかったため、
弟の実仁親王(さねひとしんのう)が皇太弟(こうたいてい)に立てられます。
実仁親王、このときわずか2歳です。
そんな幼い実仁親王を皇太弟に立てることを強く望んだのは、
2人のお父さんである後三条上皇(ごさんじょうじょうこう)です。

前回述べた通り、後三条上皇は、
藤原北家(ふじわらほっけ)、すなわち摂関家(せっかんけ)を外戚としない天皇でした。
ゆえに、摂関家に遠慮することなく、
延久の荘園整理令などの改革を強力に押し進めることができたのです。

しかし、白河天皇のお母さんは、藤原北家の出身です。
(藤原能信(ふじわらのよしのぶ)の養女である藤原茂子(ふじわらのもし、または、ふじわらのしげこ))

一方、実仁親王のお母さんは、藤原北家の出身ではありません。
(源基平(みなもとのもとひら)の娘である源基子(みなもとのきし、または、みなもとのもとこ))

後三条上皇は、摂関家と外戚関係にある白河天皇よりも、
自分と同じように、摂関家と外戚関係にない実仁親王の即位を願ったのです。

この願いは相当強かったようで、1073年に後三条上皇がこの世を去る際、
もし実仁親王にナニかがあった場合は、弟の輔仁親王(すけひとしんのう)を皇太弟にするように、
という遺言(ゆいごん)を残したほどです。

1086-1.jpg

その後、後三条上皇の心配は的中し、
1085年、実仁親王は15歳の若さでこの世を去ってしまいます…
ということで、後三条上皇の遺言どおり、輔仁親王が皇太弟になる…

のかと思いきや!!!

なんと翌1086年、白河天皇は息子を皇太子(こうたいし)に立て、
なんとなんと、その日のうちに息子に天皇の位を譲ってしまったのです!!
後三条上皇の遺言、ガン無視です!!!

こうして誕生したのが、堀河天皇なのです。

このとき堀河天皇はまだ8歳ということで、
お父さんである白河上皇が補佐にあたります。

そう、これが院政のはじまりです。

つまり院政とは、白河天皇が、弟ではなく、
自分の息子に天皇の位を譲りたかったがために始まった政治体制なのです。

しかし、ここで1つ疑問がわきませんか?
天皇が幼少のときは、摂政が補佐するんじゃないの??って。

ハイ、その通りです。
堀河天皇の即位に際して、ちゃんと摂政が置かれていて、
白河上皇はその摂政と協調関係を築きながら政務を執ったようです。

しかし、堀河天皇の成人後、22歳のワカゾーが関白に就任したこと、
さらに、堀河天皇の死後、その息子である鳥羽天皇(とばてんのう)が5歳で即位したことで、
白河法皇(しらかわほうおう、上皇が出家すると法皇になります)に権力が集中するようになり、
院政はどんどん強力な政治体制となっていったのです。

結果、白河上皇は、息子の堀河天皇、孫の鳥羽天皇、
そしてひ孫の崇徳天皇(すとくてんのう)の3代にわたって院政を敷くことになるのです。

1086-2.jpg

ちなみに上皇とは、譲位した天皇を指すんでしたね。
正式名称は太上天皇(だいじょうてんのう、または、だじょうてんのう)で、
平安時代中期ごろから上皇と省略して呼ばれるようになったようです。
また、上皇の住居を院(いん)と呼んだのですが、
それがいつの間にやら上皇自身を指す言葉にもなったようです。

というわけで、
上皇(院)による政治を院政と呼び、
その役所を院庁(いんのちょう)、院庁の職員を院司(いんし)と呼び、
院庁から下される命令文を院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)、
上皇の命令を受けて院司が下す命令文を院宣(いんぜん)と呼びます。

とにかく、なんでもかんでも「院」がつくので覚えやすいです(笑)

*   *   *

では最後に、白河上皇による院政を史料で見ておきましょう。

禅定法王(ぜんじょうほうおう、〔1   〕のこと)は、〔2   〕院崩後(ほうご、亡くなった後ということ)、天下の政をとること五十七年、在位十四年、位を避るの後四十三年。意に任せ、法に拘(こだわ)らず、除目(じもく)・叙位(じょい、いずれも官位の人事のこと)を行ひ給ふ。古来未(いま)だあらず。(中略)威(い)四海に満ち天下帰服(きふく)す、幼主三代(堀河・鳥羽・崇徳天皇の3代のこと)の政をとり、斎王(さいおう、伊勢神宮などに奉仕する皇女のこと)六人の親となる。桓武以来、絶えて例なし。聖明の君、長久の主と謂(い)ふべきなり。但し理非決断(りひけつだん、裁判をしっかりとおこなうこと)、賞罰分明(しようばつぶんめい、賞と罰をはっきりとおこなうこと)、愛悪掲焉(あいおけちえん、いつくしみと憎しみとが著しいこと)にして、貧富は顕然なり。男女の殊寵(しゅちょう、男女の近臣を優遇すること)多きにより、已(すで)に天下の品秩(ほんちつ)破るゝなり。
(出典:藤原宗忠(ふじわらのむねただ)『中右記(ちゅうゆうき)』)


空欄にあてはまる語句は分かりましたか?

 1…白河上皇
 2…後三条

大学入試で頻出する史料ではありません。
空欄にあてはまる語句と、これが白河上皇の院政について言及した史料であることさえ分かっておれば、
まぁ大丈夫!といったところです。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

1086年.jpg



次回は、保元の乱(ほうげんのらん)を見ていきます。

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1069年 延久の荘園整理令を出す [年号のゴロ合わせ]

私事ですが、先日第2子を出産しました。
ただでさえのろのろ更新のブログですが、さらに更新が滞るかもしれません…
申し訳ありませんが、何卒ご了承くださいませ。

*   *   *

今日は、1069年に後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が発令した、
延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)を、ゴロ合わせとともに紹介します。

まずは、後三条天皇の外戚(がいせき)が誰なのか、系図で確認してみましょう。

1069-1.jpg

外戚とは、お母さん側のおじいちゃんのことでしたよね。
後三条天皇のお母さんは禎子内親王(ていしないしんのう)で、
彼女のお父さんは三条天皇ですので、
後三条天皇の外戚は三条天皇となります。

そうなんです!
後三条天皇の外戚は、藤原北家(ふじわらほっけ)ではないのです!!
摂関家(せっかんけ)と外戚関係にないのです!!!

といっても、禎子内親王のお母さんは、
藤原道長(ふじわらのみちなが)の娘である藤原妍子(ふじわらのけんし、または、ふじわらのきよこ)です。
後三条天皇は、摂関家と血のつながりがあるのです。
しかし、外戚関係ではありませんし、
なにより禎子内親王は、藤原北家とあまり仲がよろしくなかったようです。

摂関家を外戚としない天皇の即位は、
宇多天皇以来、なんと約170年ぶりのことです。
後三条天皇は、一体どのような経緯で即位することになったのでしょうか。

*   *   *

後三条天皇の前の天皇は、後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)です。
後冷泉天皇が即位するとき、まだ子どもがいなかったので、
弟である尊仁親王(たかひとしんのう)が皇太弟(こうたいてい)と定められます。

その後、藤原道長の息子である藤原頼通(ふじわらのよりみち)は、
一人娘の藤原寛子(ふじわらのかんし、または、ふじわらのひろこ)を後冷泉天皇と結婚させます。

2人の間に子どもが生まれれば、すぐさま尊仁親王を皇太弟の座から引きずりおろし、
その子ども(藤原頼通にとっては孫)を皇太子、そしてゆくゆくは天皇とし、
自らは天皇の外戚として絶大な権力を手に入れる…という計画のための政略結婚です。
そして、この計画が実現するものだと信じて疑わない藤原頼通は、
邪魔でしかない皇太弟を冷遇します。

ところが…

後冷泉天皇は、藤原寛子との間に子どもをもうけることなくこの世を去ってしまうのです。
父である藤原道長のように、藤原頼通は天皇と外戚関係を築くことができなかったのです。

結果、皇太弟の尊仁親王が即位します。
そう、藤原頼通に冷遇されてきた彼こそが、後三条天皇なのです!

こうして摂関家を外戚としない後三条天皇が誕生し、
彼は摂関家に遠慮することなく(冷遇されてきたんだしね!)、さまざまな改革に乗り出すのです。

藤原北家の栄華は、ここに終わりをつげることになるのです。



後三条天皇は、さっそく大江匡房(おおえのまさふさ)などの学者を登用し、
親政(しんせい)を開始します。
そして1069年、延久元年(えんきゅうがんねん)に、荘園整理令を発令するのです。
これを、延久の荘園整理令と呼びます。

まずは、史料で見てみましょう。

コノ〔1   〕位(くらい)ノ御時(おんとき)、(中略)〔2   〕ノ〔3   〕(〔4   〕のこと)トテハジメテヲカレタリケルハ、諸国七道ノ所領ノ宣旨(せんじ、官の命令を伝える文書のこと)・官符(かんぷ、太政官からくだす文書のこと)モナクテ公田(くでん)ヲカスムル(横領すること)事、一天四海(全世界のこと)ノ巨害(こがい)ナリトキコシメシツメテアリケルハ、スナハチ宇治殿(うじどの、〔5   〕のこと)ノ時、一ノ所(いちのところ、摂関家のこと)ノ御領(ごりょう、摂関家領のこと)御領トノミ云(いい)テ、庄園諸国ニミチテ〔6   〕ノツトメタヘガタシナド云(いう)ヲ、キコシメシモチタリケル(聞き入れ、用いられたということ)ニコソ。(以下略)
(出典:慈円(じえん)『愚管抄(ぐかんしょう)』)


空欄にあてはまる語句は分かりましたか?

 1…後三条
 2…延久
 3…記録所(きろくしょ)
 4…記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)
 5…藤原頼通(宇治に平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)を建てたため、宇治殿と呼ばれる)
 6…受領(ずりょう)

大学入試では、この空欄にあてはまる語句を問うパターンと、
「宇治殿」から藤原頼通について問うパターンが非常に多いです。
しっかりと押さえておきましょう!

この史料を簡単に訳すと、

後三条天皇の時代、はじめて延久の記録所が設置されたのは、
全国の荘園が、宣旨や官符で認められたわけでもないのに公田を横領しているのは大いなる害であること、
また、藤原頼通の時に、「摂関家領だ!摂関家領だ!!」と言って諸国に荘園があふれ、
受領の任務が果たせないなどという不満の声があがっていることを、
後三条天皇が聞き入れられたからであろう。

となります。

つまり後三条天皇は、荘園の増加が公領(こうりょう、国衙領(こくがりょう)のこと)を圧迫していると考え、
延久の荘園整理令を発令したのです。

902年に発令された延喜の荘園整理令(えんぎのしょうえんせいりれい)をはじめ、
これまでも何度か荘園整理令は出されています。
しかし、いずれも券契(けんけい)と呼ばれる荘園の証拠書類の審査を国司に任せていたため、
不徹底に終わっています。

そこで後三条天皇は、中央にある太政官(だじょうかん、または、だいじょうかん)に
記録荘園券契所(記録所)を設置し、
ここで、荘園の所有者が提出する券契と国司の報告とをあわせて厳密に審査し、
年代の新しいもの(1045年以降につくられた新しい荘園、なぜ1045年なのかは平安時代(10)のプリント参照)や、
書類不備のものなど、
基準にあわない荘園を停止したのです。

1069-2.jpg

しかも、摂関家や大寺社の荘園も例外とせず、
たとえば京都にある石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)という大きな神社の荘園は、
34か所のうち13か所の権利が停止されたと伝わっています。

延久の荘園整理令はかなりの成果をあげ、
これにより、
・ 貴族や寺社の支配する荘園
・ 国司の支配する公領(国衙領)
両者の区別が明確になります。

そして、荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)が成立することになるのですが、
これはまたのちのち、まとめプリントでお話ししたいと思います。

*   *   *

後三条天皇は、このほか1072年に宣旨枡(せんじます)を制定し、
枡の大きさを統一しています。
これは、太閤検地(たいこうけんち)で京枡(きょうます)という新たなものがつくられるまで、
公定の枡として使用されることになります。

といっても、荘園ではいろんな枡が使われていたようですが…

それでは、今日のゴロ合わせ☆

1069年.jpg

永久(えいきゅう)に…というゴロ合わせですが、
延久(えんきゅう)の荘園整理令ですのでね!
間違えて覚えないでくださいね!!



次回は、院政のゴロ合わせを見ていきます。

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1052年 末法元年 [年号のゴロ合わせ]

今日は取り上げるのは、末法思想(まっぽうしそう)です。

末法思想とは、
末法(まっぽう)の世になれば、仏法(ぶっぽう)が衰えて乱世(らんせ)になるであろう!という、
仏教の予言思想です。

平安時代、末法の世は永承(えいしょう)7年にスタートすると考えられていました。
西暦になおすと、1052年です。

この年、すなわち末法元年(まっぽうがんねん)が近づいてくると、
人々の間に「もうすぐ末法の世とやらに突入してしまう!ヤバイ!!」という、
とてつもない不安がひろがってゆきます。

せまり来る末法に、人々はどう対処したのでしょうか…



仏教の開祖(かいそ、その宗教をはじめてひらいた人)は誰か、分かりますか?

答えは、ガウタマ・シッダールタ、というインド人です。
言語によって発音が異なるため、ゴータマ・シッダッタなどと表記される場合もあります。
ほかに、釈迦(しゃか)とか、釈尊(しゃくそん)とか、ブッダとか、いろいろな呼び名があります。

ガウタマ・シッダールタの生涯を描いた作品といえば、手塚治虫さんの漫画『ブッダ』が有名です。
読んだことありますか?
これは名作ですよ~!
ちなみに、ブッダというのは「目覚めた人」、つまり、悟(さと)りをひらいた人、という意味です。

ガウタマ・シッダールタの詳しい生涯については、『ブッダ』をお読みいただくことにして(笑)、
今日は、彼が亡くなったあとのことを見ていきます。

*   *   *

たくさんの教えを説いたガウタマ・シッダールタは、あるとき、80歳でこの世を去ります。
これを入滅(にゅうめつ)、とか、仏滅(ぶつめつ)といいます。
さぁ、問題はここからです…

ガウタマ・シッダールタが生きているならば、
「この教えは具体的にどういうことですか?」と、いくらでも本人に尋ねることができます。
でも、ガウタマ・シッダールタは亡くなってしまったのです。
もう直接質問することができないのです。

ガウタマ・シッダールタの死から時間が経つにつれ、
彼の説く正しい教え(仏法)や正しい行い(修行)はどんどんうすれてゆくのではないか…
そんな不安が人々の間に広がってゆきます。
末法思想は、まさにこの不安から生まれてくるのです。

末法思想では、入滅後の時間を、3つの期間に分けて捉えます。

まずは、ガウタマ・シッダールタの死から1000年間(500年間とする説もアリ)は、
正しい教えが伝えられ、修行して悟りをひらく人がいる、という期間です。
これを、正法(しょうぼう、または、しょうほう)といいます。

次に、そこからさらに1000年間は、
正しい教えが伝えられ、修行する人もいるけれど、悟りをひらく人は現れない、という期間です。
これを、像法(ぞうぼう)といいます。

では、像法が終わると…?
ガウタマ・シッダールタの死から2000年(1500年という説もアリ)が経ってしまうと…??

正しい教えはなんとか伝わっているけれど、
修行する人も、悟りをひらく人も現れない、という乱世に入ります。
これこそが末法なのです!

1052-1.jpg

ちなみに、末法はなんと10000年間続きます(千じゃないですよ!万ですよ!!)。
1052年スタートで、10000年間ですので…
そう、末法なうなのです!!
言われてみれば、あれもこれも末法だから?なんて気になってきますよねぇ…

*   *   *

末法思想に触れるとき、いつもノストラダムスの予言を思い出します。
ノストラダムスっておじさん、知ってますか?
いまの学生さんたちは、ほとんど知らないかもしれません…

むかーし昔、ノストラダムスというフランス人がいましてね。
「1999年に世界は滅びるであろう」なんていう恐ろしい予言を残したのですよ。

2017年のいまなら、「滅んでないやん!」の一言で笑い飛ばせるのですが、
当時は、1999年が近づくにつれ、テレビでもよく特集が組まれていたのです。
彼の予言にまつわる本もたくさん出版されて、ベストセラーになっていました。
うちの親も、御多分に洩れず、『ノストラダムスの大予言』みたいな本を買ってきましたからね…
小学生のころにその本を見て、
表紙の外人の顔も怖いし(もちろんノストラダムスですよ)、挿絵も怖いし、
夜も寝られないほどビビった記憶があります。
『ノストラダムスの大予言』がならんでいる本棚に、近づくことさえ怖かったくらいです。

1999年には高校生になっていましたけど、それでもちょっと本気にしてました。
「もうすぐ世界が滅びるんやったら、勉強せんでいいやん!」なんてゆー都合のいいことまで考えてましたからね。
結局、世界は滅びなかったので、勉強せなあかんかったわけですが…(笑)

ノストラダムスの予言ははずれ、ちゃんと21世紀はやって来ましたが、
それでも、そういうたぐいの特番って、テレビで定期的にやってるじゃないですか。
信じるか信じないかはアナタ次第、ってね。

これだけ科学が進歩した現代でさえ、
世界が滅びるみたいな予言を「嘘やろ!」って笑い飛ばしながらも、
心のどこかでなんかちょっぴり信じちゃうんですよ。

それなのにです!

11世紀ごろの人々が、「もうすぐ乱世がやってくるであろう」なんて予言を聞いたらどうなると思います?
だいぶ信じるんです!
いや、めちゃくちゃ信じるんです!!

しかも、ちょうどそのころ、各地でいろいろな災害が起きたり、
町では盗賊(とうぞく)や乱闘(らんとう)が頻発して治安が悪化するなどしていたようです。
そうするとね、それもこれも「みんな末法が近づいてきたせいだ!」と結びついてしまうのです!
そして、末法思想の信憑性(しんぴょうせい)が、ぐんぐん高まってしまうのです!!
怖いですよね…ほんと怖い。

そこで、人々は仏さまにすがるようになります。
浄土教(じょうどきょう)の発達です。

ちなみに、鎌倉時代に法然(ほうねん)がひらいたのは浄土宗(じょうどしゅう)です。
混同しないよう注意してください!

*   *   *

浄土教とは、阿弥陀仏(あみだぶつ)、または、阿弥陀如来(あみだにょらい)と呼ばれる仏さまを信仰し、
来世(らいせ)において極楽浄土(ごくらくじょうど)に往生(おうじょう)することを願う教えのことです。

ぬぅぅぅ…漢字が多すぎてややこしいですね…
ざっくりかみくだいていきましょう。

まず、極楽浄土とは、幸せいっぱいの「あの世」のことです。
まぁキリスト教でいうところの天国みたいなもんですね。
で、阿弥陀仏(阿弥陀如来)は、その極楽浄土をつくった仏さまなのだそうです。

つまり、極楽浄土をつくった阿弥陀仏をひたすら信じることで、
この世を去ったら極楽浄土に生まれ変わりたい…と願うのが、浄土教なのです。
分かりますか?

でも、どうやったら極楽浄土に往生することができるんでしょうか…

それがアラ簡単!
阿弥陀仏の名前を口にするだけでいいんですって!!

それが、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という念仏(ねんぶつ)なのです。
阿弥陀仏という仏さまの名前を念じるので、念仏といいます。
ちなみに、頭についている「南無(なむ)」は、
サンスクリット語で「あなたにおまかせします」という意味があるのだそうです。

念仏をとなえれば極楽浄土に往生できる…
ホンマかいな?と思うぐらい簡単なことですが、
簡単がゆえに、末法を目の前にした人々の間に、浄土教はぐんぐん広まってゆくのです。

*   *   *

ここで、浄土教を広めた人物を、3人紹介しましょう。
いずれも末法の世に入る前に活躍した人々です。

①空也(くうや)
浄土教を人々に説いてまわったお坊さんです。
とくに京都の市(いち)で念仏を広めたことから、市聖(いちのひじり)と呼ばれます。
鎌倉時代に康勝(こうしょう)がつくった空也の木像、有名ですよね!
Kuya_Portrait.jpg
口から何か出てますね…
空也が「南無阿弥陀仏」ととなえると、その1音1音が阿弥陀仏になった…という伝説をあらわしているのだそうです。
詳しくは後日、鎌倉文化で紹介します。

②源信(げんしん)、または、恵心僧都(えしんそうず)
念仏による極楽往生の方法を、『往生要集』(おうじょうようしゅう)という本にまとめお坊さんです。
その序文を見てみましょう。
夫(そ)れ〔1   〕の教行(きょうぎょう)は、濁世末代(じょくせまつだい、にごり果てた末法の世のこと)の目足(もくそく、道しるべのこと)なり。道俗貴賤(どうぞくきせん、出家した人とそうではない人、身分の高い人と低い人、ということ)、誰か帰せざる者あらむや。但(ただ)し顕密の教法(けんみつのきょうぼう、顕教と密教、つまりこれまでの仏教すべて、ということ)は、其(その)文一に非(あら)ず。事理の業因(ごういん)は、其の行(ぎょう)惟(こ)れ多し。(中略)是(こ)の故(ゆえ)に、〔2   〕の一門に依りて、聊(いささ)か経論の要文を集む。之(これ)を披(ひら)き之を修(しゅ)すれば、覚(さと)り易(やす)く行ひ易からん。(出典〔3   〕『4   』、原漢文)
空欄にあてはまる語句は次の通りです。
 1…極楽往生
 2…念仏
 3…源信、または、恵心僧都
 4…往生要集
入試では、この序文から本のタイトルと作者名、すなわち〔3   〕と〔4   〕を問うことが多いです。
〔1   〕や〔2   〕の語句を答える問題は、たま~に出るだけです。
しかも、ちゃんと選択肢が用意されています。
ちなみに、応天門の変で登場した源信(みなもとのまこと)とは別人ですからね!
漢字は一緒なので、気をつけてください!!

③慶滋保胤(よししげのやすたね)
『日本往生極楽記』(にほんおうじょうごくらくき)という本を書いた人物です。
これは、聖徳太子など、極楽浄土に往生した45人の伝記を集めたものです。
このような本を、往生伝(おうじょうでん)といいます。
ちなみに、平安京の右京が早くから荒廃していたことを記した『池亭記』(ちていき)の作者でもあります。

*   *   *

最後に末法思想のキーワードをあげておきましょう。
・末法元年=1052年(永承7年)
・浄土教の発達
 空也
 源信(恵心僧都)『往生要集』
 慶滋保胤『日本往生極楽記』

ところで、ガウタマ・シッダールタっていつ亡くなったのでしょう。
末法元年が1052年として逆算すると…紀元前949年ごろとなります。

しかし!

実は、ガウタマ・シッダールタがいつ生まれていつ亡くなったのか、
いまでもよく分かってないんですよ…

んじゃ、本当の末法のはじまりって、一体いつなのでしょうね…
正法の期間だって、500年説と1000年説があるわけで…

とりあえず、平安時代の人々は1052年スタートだと信じていたようなので、
この数字を末法元年として覚えておいてください!

それでは、今日のゴロ合わせ☆

1052年.jpg



次回から、平安時代のまとめプリントの続きを見ていきます。

画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E4%B9%9F

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1083年 後三年合戦が起こる [年号のゴロ合わせ]

前回は、東北地方で起きた、前九年合戦(ぜんくねんかっせん)を取り上げました。

前九年合戦とは、
1051年に陸奥国(むつのくに)の安倍氏(あべし)が陸奥守(むつのかみ)と衝突し、
その後、かわって陸奥守となった源頼義(みなもとのよりよし)が、
出羽国(でわのくに)の清原氏(きよはらし)の協力を得て、安倍氏を平定した、
という出来事でしたね。

前九年合戦で陸奥国の安倍氏が滅亡すると、出羽国の清原氏は、陸奥国にも勢力を広げます。
質のよい馬が育ち、砂金がたくさんとれる、
そんな豊かな東北地方一帯を、清原氏は支配することになるのです。

今日取り上げるのは、その清原氏のなかで起きる相続争いです。
後三年合戦(ごさんねんかっせん)、または、後三年の役(ごさんねんのえき)といいます。

では、詳しく見ていきましょう。



はじめ、前九年合戦で安倍氏を率いたのは誰だったか、覚えていますか?
答えは、陸奥国のリーダー安倍頼時(あべのよりとき)です。

その安倍頼時には、娘がいます。
彼女は、陸奥国の豪族である藤原氏と結婚し、
藤原清衡(ふじわらのきよひら)という息子をもうけます。
しかし、前九年合戦で彼女の実家にあたる安倍氏は滅亡し、
さらに、旦那さんである藤原氏も処刑されてしまいます。

その後、彼女は幼い息子をともなって、清原氏と再婚します。
息子は清原氏の養子となり、清原清衡(きよはらのきよひら)と名乗ります。

彼女にとって、父や兄、そして夫の敵(かたき)との再婚は、
とてもツラいことだったでしょうね…
でも、清原氏が安倍氏にかわって陸奥国を支配するには、
安倍氏との血のつながりが必要だったのです。

やがて彼女は、清原氏の子どもを出産します。
名を、清原家衡(きよはらのいえひら)といいます。
安倍氏と清原氏の血をひく男の子です。

とはいえ、清原氏を継ぐのは、
清原真衡(きよはらのさねひら)という人物に決まっていました。

みんなヒラヒラしていてややこしいので(笑)、ここで系図を確認しておきましょう。

1083-1.jpg

清原真衡・清衡・家衡の関係、整理できましたか?
では、話を続けましょう。

清原氏の跡継ぎである清原真衡は、なかなか偉そうなヤツだったようです。
あるときモメゴトが起こり、清原清衡と清原家衡は、清原真衡を討とうとします。
1083年、後三年合戦の始まりです。

しかし、清原真衡に圧倒され、2人は戦うことなく逃げ帰ってしまいます。
その後、清原清衡と清原家衡が、再び清原真衡を討とうとした矢先、
清原真衡が病気で急死してしまいます。

このときの陸奥守は、源頼義の息子である源義家(みなもとのよしいえ)です。
源義家は、清原真衡の土地を、清原清衡と清原家衡の2人で半分こするよう命じます。
ところが、清原家衡はこの命令に不満があったようで、
清原清衡の屋敷を襲撃し、奥さんや子どもを皆殺しにしてしまいます!
ちょ…一緒に清原真衡を討とうとした兄弟なのに!ひどいよ家衡!!

清原清衡は命からがらなんとか逃げのび、源義家に助けを求めます。
源義家としても、自分の命令に刃向かった清原家衡を許すわけにはいかないので、
清原清衡に協力します。

結果、清原清衡と源義家の連合軍が、清原家衡を破り、後三年合戦は終結します。

*   *   *

さて、この後三年合戦。

朝廷は、源義家に清原家衡を討てとの命令は出していません。
だって、清原氏の内部で起きた相続争いですもんね、
別に清原家衡が朝廷に対して反乱を起こしたわけじゃないですもんね。
陸奥守の源義家が、勝手に清原氏のモメゴトに首を突っ込んだだけの話です。

よって朝廷は、後三年合戦を源義家の私戦(しせん)と見なします。
もちろん、源義家に恩賞も出しません。

てゆーかですよ、そもそも後三年合戦の間、
源義家は朝廷への税を滞納し、それを戦争の費用や食料にまわしていたようなのです。

源義家は陸奥守を解任され、ながらく出世コースから外れてしまいます。
まぁ…しゃーないことですわな。

でもね、実際に東北地方で大きな戦争があったんですよ!
源義家のもとに、関東からたくさんの兵士が集まってくれたんですよ!!
源義家としては、「朝廷から恩賞が出ないので、君たちの給料は払えません」では済ませられないんですよ!!!

そこで源義家は、一緒に戦ってくれた兵士たちに、自分の財布から給料を支払います。
こうするしか方法がありませんもんね…

するとですよ…
兵士たちは感動するわけです!
「義家さん、自分も貧乏なのに俺たちのために…超カッケー!」となるのです!!

1083-2.jpg

またまたマワシ姿ですんません(笑)
このイラストで、源義家は兵士たちに私財で給料を支払い、すってんてんになってしまったんだと覚えてください(笑)

源義家の男気(おとこぎ)にふれた兵士たちは、フィーバーします。
これによって、源氏の名はすっかり関東に知れ渡ることになるのです。
源義家が鎌倉幕府の基盤をつくった、と言っても過言ではないのです。

*   *   *

ちなみに、東北地方はというと、
後三年合戦ののち、清原清衡は清原氏の土地をすべて手に入れることになります。
そして彼は、本当のお父さんの姓に戻し、藤原清衡と名乗るようになります。
そう、彼こそが、奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)の初代になるのです。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

1083年.jpg

2回連続マワシなゴロ合わせですんません…



次回は、時間をちょっと巻き戻して、末法元年(まっぽうがんねん)を取り上げます。

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1051年 前九年合戦が起こる [年号のゴロ合わせ]

今日は、1051年に始まった、前九年合戦(ぜんくねんかっせん)を取り上げます。
現在の山川出版社『詳説 日本史B』という教科書は、前九年合戦の表記を用いていますが、
この出来事、一般には前九年の役(ぜんくねんのえき)と呼ばれています。

そもそも役(えき)とは一体なんなのでしょうか?

ほかに「○○の役」と呼ばれる事件といえば、
元寇(げんこう)の、文永の役(ぶんえいのえき)・弘安の役(こうあんのえき)、
朝鮮侵略(朝鮮出兵)の、文禄の役(ぶんろくのえき)・慶長の役(けいちょうのえき)、などがあります。
いずれも外国との戦いですよね。

つまり、役(えき)とは、外国との戦いに用いられる名称なのです。

ただし、都から遠く離れた辺境(へんきょう)の地での戦いにも用いられます(諸説アリマス)。
前九年の役は、都から遠く離れた東北地方で起きたため、このような名称で呼ばれるのです。

テストで答える場合は、前九年合戦でも前九年の役でもマルですからね!
それでは、どんな戦いだったのか、見ていきましょう。



かつて東北地方は、朝廷の支配に属さない蝦夷(えみし)たちが住む地域でした。
平安時代(2)のプリントにあるように、
朝廷は蝦夷との戦いを繰り返して支配地域の拡大につとめ、
9世紀前半に、その平定を完了させました。
やがて朝廷は、支配下に入った蝦夷たちを、俘囚(ふしゅう)と呼ぶようになります。

ではここで、11世紀ごろの東北地方の勢力図を見ておきましょう。
陸奥国(むつのくに)では安倍氏(あべし)が、
出羽国(でわのくに)では清原氏(きよはらし)が力をもっています。
地図で見ると、ざっくりこんな感じです。

1051-1.jpg
(CraftMapより作成)

安倍氏を率いるのは、安倍頼時(あべのよりとき)という人物です。
奥六郡(おくろくぐん、上の地図のピンク色のあたり)という地域に住む俘囚たちの、リーダー的存在です。

安倍頼時も俘囚なので、もちろん陸奥国府(むつこくふ)の支配下にあるわけですが、
次第に両者の関係はくずれてゆき、1051年に衝突してしまいます。
勝利したのは、安倍頼時です。
敗れた陸奥守(むつのかみ、陸奥国の国司の最上級者)の藤原氏は、
陸奥守をクビになってしまいます。

かわって陸奥守に任じられたのは、源頼義(みなもとのよりよし)という人物です。
安倍頼時との関係は良好で、ナニゴトもなく時間が過ぎてゆきます…

ところが1056年。
源頼義がそろそろ陸奥守の任期を終えようというタイミングで、事件が起こります!
源頼義の部下が、ナニモノかに襲撃されるのです!!

おそらく犯人は、安倍頼時の息子である安倍貞任(あべのさだとう)であろうということで、
源頼義は、安倍頼時に息子の身柄(みがら)を引き渡すよう要求します。
しかし、安倍頼時はこの要求を拒否し、なんと挙兵したのです!

前九年合戦の再開です。

翌年、安倍頼時は、戦いのさなかに命を落としてしまいます。
源頼義は朝廷に対し、安倍頼時戦死の報告と、援軍の要請をするのですが、
朝廷からは、とんと音沙汰がありません…
敵のリーダーを討ち取ったのに、褒美(ほうび)も援軍ももらえず、源頼義は次第に追い込まれてゆきます。

その間、戦死した父親にかわって一族を率いるようになった安倍貞任は勢いを増しており、
源頼義はボコボコにされてしまいます。
息子である源義家(みなもとのよしいえ)の活躍によって、命からがら逃げ延びたこともあったとか…

なんとかこのピンチを乗り越えたい源頼義は、とある一族に目をつけます。
さきほどの地図をもう一度見てください。

1051-1.jpg
(CraftMapより作成)

そうです!
源頼義は、出羽国の俘囚のリーダーである清原氏に協力をあおぐのです!!

源頼義は、プレゼントを贈りまくったり、朝廷の権威をふりかざしたりして、
なんとか清原氏に参戦を承諾してもらいます。

1051-2.jpg

清原氏の参戦によって、源頼義は勢いを取り戻し、
安倍貞任を討ち取ることに成功します。
ここに、1051年以来、12年にわたる前九年合戦が終結するのです。

とにもかくにも、前九年合戦は、
 〔勝〕源頼義(陸奥守)+清原氏(出羽国) vs 〔負〕安倍氏(陸奥国)
という構図を覚えておけば大丈夫です!

ところで!
「前九年」ってなんなんですかね…
気になってませんでしたか?

実はこれ、ナニが「前」なのか、ナニが「九年」なのか、サッパリ分からんのです…
戦いは12年続きましたが、一体「九年」という数字はどこからきたんでしょうかね…
12年から、後三年合戦(ごさんねんかっせん)の3を間違って引いちゃったんじゃないかという説もあるそうですが、
正解は分かりません。
とりあえず、昔から前九年の役とか前九年合戦って呼んでるみたいなので、
我々も深く考えずにそう呼んでおくとしましょう…

それでは、今日のゴロ合わせ☆

1051年.jpg

マワシ姿でゴメンナサイ!
ドスコイで1051年を覚えてほしかっただけです。
深い意味はありません!!

ちなみに、安倍氏の漢字には注意してくださいね!
これまでに登場した阿倍内麻呂(あべのうちまろ)・阿倍比羅夫(あべのひらふ)・阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、
彼らの漢字は阿倍です。
混同しないよう気をつけてください。
なお、総理大臣の安倍晋三さんは、安倍氏と同じ漢字ですよ。



次回は、後三年合戦を取り上げます。

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1019年 刀伊の入寇が起こる [年号のゴロ合わせ]

今日は、1019年に起きた刀伊の入寇(といのにゅうこう)を取り上げます。
この出来事、刀伊の来寇(といのらいこう)、と呼ぶ場合もあります。

入寇と来寇に共通する「寇」の漢字には、外から攻めてくる、という意味があります。
つまり、この漢字が使われている出来事は、すべて外国から攻められたものである、ということです。
元寇(げんこう)もそうですよね!
ちなみに、「寇」の漢字の部首はウカンムリです、ワカンムリにしないよう気をつけてください。

それでは、刀伊(とい)とは一体ナニモノなのでしょうか。
見ていきましょう!



まずは、10~11世紀ごろの東アジアの様子を確認しておきましょう。

1019-1.png
(CraftMAPより作成)

中国では、907年に唐が滅び、
北部と南部で王朝が乱立する五代十国時代(ごだいじっこくじだい)に突入します。
それを960年に統一したのが、趙 匡胤(ちょう きょういん)が建てた宋(そう)という国です。

のちに宋は、北方に成立する金(きん)という国に皇帝を連れ去られ、滅んでしまいます。
このとき、たまたま実家にいた皇帝の弟は難を逃れており、南の方で宋を再興します。
便宜上、両者を区別するため、もとの宋を北宋(ほくそう)、再興した後の宋を南宋(なんそう)と呼びます。
今日見ていくのは、北宋の時代です。

次に、中国のさらに北の地域を見ていきましょう。

このあたりには、かつて遼(りょう)と渤海(ぼっかい)という国がありました。
遼は、時代によって契丹(きったん)と名乗ったりします。
奈良時代(5)のまとめプリントにある地図で、それぞれの位置関係を確認しておいてください。

奈良5解答.jpg

926年、遼が渤海を滅ぼします。
こののち、もともと渤海があったあたりで、遼の支配を受けながら生活するようになるのが、
女真族(じょしんぞく)と呼ばれる人々です。
彼らはやがて遼に対して反乱を起こし、12世紀には金という国を建てます。
そして、北宋と手を組んで遼を滅ぼし、
さらに前述のとおり、皇帝を連れ去ることで、北宋をも滅ぼしてしまうのです。
おそるべし女真族。

このころ、新羅(しらぎ)にかわって朝鮮半島を支配していた高麗(こうらい)は、
女真族のことを「トイ」と呼んでいて、
日本では、これに「刀伊」という漢字をあてたようです。

そう、刀伊の正体は、女真族なのです!

*   *   *

1019年のことです。

海の向こうから刀伊の船がやってきて、対馬(つしま)を襲撃します。
船の数は50以上。
突然のことに為(な)すすべもなく、
対馬では36人が殺害され、346人がさらわれたと記録されています。

続いて、彼らは壱岐(いき)を襲撃します。
ここでも殺人、拉致(らち)が繰り返され、
壱岐に残った人は、わずかに35人だけだった…と伝わっています。

次に、刀伊の船が向かった先は、九州北部です。

1019-2.png
(CraftMAPより作成)

これを迎え撃つのは、
大宰権帥(だざいのごんのそち、または、だざいのごんのそつ)の藤原隆家(ふじわらのたかいえ)です。
彼は、刀伊が博多に上陸しようとするのを阻止し、船の撃退に成功するのです!

この出来事を、刀伊の入寇、または、刀伊の来寇、といいます。

朝廷が刀伊の入寇を知ったのは、藤原隆家がすっかり船を撃退したあとのことでした。
通信手段が整っている現代ならば、すぐに情報を手に入れられるのでしょうが、
そうはいかない時代ですからね…
とはいえ、こうして平将門の乱藤原純友の乱に引き続き、
危機的状況に何も対応できない朝廷の姿と、地方武士の実力が世に知れ渡ってゆくのです。

*   *   *

ところで、藤原隆家とはどんな人物なのでしょうか。
995年ごろ、まだまだ藤原道長(ふじわらのみちなが)がヒヨッコだった時代の系図で確認してみましょう。

1019-3.jpg

いますね、藤原隆家。
彼は、藤原道長の前に絶大な権力をほこった藤原道隆(ふじわらのみちたか)の息子です。
ちなみにお姉ちゃんは、一条天皇の中宮藤原定子(ふじわらのていし、または、ふじわらのさだこ)です。
かなりのエリートファミリー出身であることが分かりますね。
ではなぜ、藤原隆家は中央で出世せず、大宰府で刀伊を迎え撃つことになったのでしょうか…

まずは、藤原隆家のお兄ちゃんである、藤原伊周(ふじわらのこれちか)という人物を紹介しましょう。

藤原伊周は、絶大な権力をほこる藤原道隆の息子です。
彼は、父親の権力によって、どんどん出世してゆきます。
完全に親の七光りです。
まわりはおもしろくないですよね…

そんなおり、995年に藤原道隆が亡くなります。
藤原伊周は、父親という最大の後ろ盾を失ってしまうのです!
この隙に権力をのばそうとするのが、藤原道長です。
藤原伊周は、おじさんである藤原道長と、醜いまでの勢力争いを繰り広げます。
外に聞こえるほどの大声で、怒鳴りあいのケンカをすることもあったんだとか…

さぁ藤原道長と藤原伊周、どちらが勝利するのでしょうか…

ところで、このころの藤原伊周には、好きな人がいました。
とある公卿(くぎょう)の三女です。
平安時代は、彼氏が彼女の家に夜な夜な通うものなので、
藤原伊周もせっせと彼女に家に通っていました。

ところがです!
どうやら他の男もその家に通っているようなのです!!

浮気?
略奪愛??
藤原伊周としては、その男を許すわけにはいきません!

調べたところ、その男は花山法皇(かざんほうおう)でした。
なんと、先代の天皇だったのです!(当時は一条天皇の時代です)

藤原伊周は、弟の藤原隆家にこのことを相談します。
すると、男気あふれる藤原隆家は、家来を引き連れて、なんと花山法皇を襲撃したのです!

1019-4.jpg

このとき、花山法皇は、衣の袖(そで)を弓で射抜かれてしまいます。
先代の天皇が襲撃されるなんて、とんでもない大事件なのですが…
花山法皇としてはね、コレ恥ずかしすぎて他人様(ひとさま)に言えないわけですよ。

だって法皇(出家した上皇のこと)なんですよ?
出家した身なんですよ??
それなのに、女のもとに夜な夜な通っているなんてバレたら超恥ずかしいじゃないですか!
なので黙っていたのです…

でもね…
こういうおもしろい話って、どこからともなく漏れるんですよ……
「内緒の話なんだけどね…」という言葉が頭についていながら、どんどん広まっちゃうわけですよ………

結果、この事件は人々の知るところになり、
藤原伊周は大宰権帥に、藤原隆家は出雲国の国司に左遷されてしまいます。

これによって、藤原道長と藤原伊周の権力闘争は、藤原道長の勝利に終わります。
なんともオマヌケな話です。

ちなみに、花山法皇のお目当ては、藤原伊周の彼女ではなく、その妹だったようです。
同じ家に住んでたからね、勘違いしちゃったんですね!
藤原伊周…つくづくオマヌケすぎる…

ということで、藤原隆家は、兄想いの男気あふれる人物だったようです。
しかし、花山法皇を襲撃したことにより、中央での出世コースからはずれてしまいます。
左遷先の出雲から一度は都に戻ったものの、
やがて目の病気を患い、自ら大宰府への転勤を申し出たようです。
そこで刀伊の入寇にでくわしたのですね。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

1019年.jpg

無理矢理ですが、これで藤原タカイエの名前も覚えてしまってくださいね!(笑)



次回は、前九年合戦(ぜんくねんかっせん)を取り上げます。

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1016年 藤原道長が摂政になる [年号のゴロ合わせ]

969年の安和の変で他氏排斥を完了させた藤原北家は、向かうところ敵なしです。
今日は、なかでもとくに栄華を極めた藤原道長(ふじわらのみちなが)を取り上げます。



藤原道長は、どのようにして栄華を極めたのでしょうか?

答えは、外戚関係の利用です。
彼は、4人の娘を天皇や皇太子と結婚させ、およそ30年にわたって権勢をふるったのです。
ややこしいので、最初に系図を載せておきましょう。

1016-1.jpg

いやー…これはややこしいわ…
立体交差しまくってますもんね…
心が折れそうになりますが、頑張って4人の娘の結婚を順番に見ていきましょう!

1人目は、藤原彰子(ふじわらのしょうし、または、ふじわらのあきこ)です。
藤原道長の長女として生まれた彼女は、
999年、12歳のときに、8歳年上の一条天皇(いちじょうてんのう)と結婚します。

天皇の正式な奥さんを皇后(こうごう)、または中宮(ちゅうぐう)といいます。
藤原道長としては、かわいい娘をぜひとも皇后にしたいわけですが、
このころ、一条天皇にはすでに皇后がいたのです!
藤原道隆(ふじわらのみちたか)の娘である、藤原定子(ふじわらのていし、または、ふじわらのさだこ)です。
藤原道長にとっては、お兄ちゃんの娘、つまり姪っ子(めいっこ)にあたる女性です。
上の系図で確認しておいてください。

皇后は1人だけと決まっているので、藤原彰子は皇后にはなれません。
さぁ!藤原道長はどうするのでしょうか…

ここで皇后と中宮の関係に触れるため、一条天皇と藤原定子の結婚に話をさかのぼります。
ざっくりとしか述べませんが、とてもややこしい内容なので、
ふーん…と流し読みしてもらったら結構です。

*   *   *

藤原定子が一条天皇と結婚したとき、
円融上皇(えんゆうじょうこう)の奥さんが、まだ皇后を名乗っていました。
本来、上皇の奥さんは皇太后(こうたいごう)と名乗るものなのですが、
そのころ一条天皇のお母さん(この人も円融上皇の奥さん)が皇太后であったため、
それを名乗ることができず、ながらく皇后のままだったのです。

どんな形であれ、皇后は1人だけです。
すでに皇后を名乗る者がいる以上、藤原定子は皇后にはなれません。
それがルールなのです。

しかし!
当時、藤原北家のなかでもとくに権力をにぎっていた藤原道隆が、
「いま皇后を名乗ってるのって、上皇の奥さんじゃん!」というゴモットモな突っ込みを入れたのです!!
そして藤原道隆は、皇后から、その別名である中宮を切り離し、
円融上皇の奥さんはそのまま皇后として残しつつ、
娘である藤原定子を2人目の皇后、すなわち中宮としてねじこんだのです!!!

皇后は1人だけ、というルールだったのに、
皇后が、皇后と中宮の2人になってしまったのです!!

といっても、一条天皇の皇后は、藤原定子ただ1人です。
1人の天皇に対して皇后は1人だけ、というルールに改訂されたというわけです。

*   *   *

皇后と中宮の関係、なんとなく理解できましたか?
では、一条天皇と藤原彰子の結婚に話をもどしましょう。
ここからは、ふーん…ではなく、真面目にお読みください(笑)

先にも述べたように、藤原彰子が結婚しようとしたとき、
旦那さんとなる一条天皇には、すでに藤原定子という中宮がいました。
1人の天皇の対して皇后は1人だけ、というルールなので、
もちろん藤原彰子は、一条天皇の皇后にはなれません。

でもそんなこと、藤原道長が許すわけないのです!

藤原道長が目をつけたのは、一条天皇のお母さんです。
彼女はながらく皇太后を名乗っていたのですが、
このころ出家をしていて、すでに皇太后ではなくなっていたのです。

そこで藤原道長は、
これまで皇后を名乗っていた円融上皇の奥さんを皇太后とし、
これまで中宮を名乗っていた藤原定子を皇后にしたのです。
すると、中宮のポストが空きますよね?

そうなんです!
藤原道長は、藤原彰子を空いた中宮のポストにつけることで、一条天皇の皇后としたのです!!

ここに、1人の天皇に対して皇后が2人いる、という前代未聞の事態が起きたのです!
藤原道長、やりたいホーダイです!!

一条天皇とすれば、皇后が2人もいるなんてパニックですよね…

1016-2.jpg

ほどなく、藤原定子が難産のすえこの世を去り、
藤原彰子が、一条天皇にとってただ1人の皇后となります。

藤原彰子はながらく子どもに恵まれなかったのですが(この間、定子が産んだ長男を育てています)、
1008年に長男を、1009年に次男を産みます。
ついに、藤原道長が外戚になるチャンスがやって来たのです!

その後、一条天皇がこの世を去り、かわって三条天皇(さんじょうてんのう)が即位します。
藤原道長の次女である藤原妍子(ふじわらのけんし、または、ふじわらのきよこ)は、
皇太子だったころの三条天皇と結婚しており、旦那さんの即位にともない中宮となります。
藤原妍子を皇后としなかったこともあって、三条天皇と藤原道長との関係はよろしくなく、
ほどなく三条天皇は、目の病気を理由に譲位させられてしまいます。

1016年、三条天皇にかわって即位したのは、後一条天皇(ごいちじょうてんのう)です。
彼は、一条天皇と藤原彰子の間に生まれた長男です。
ついに藤原道長は、念願の外戚となったのです!
このとき後一条天皇は9歳だったため、大好きなおじいちゃんである藤原道長が摂政に任命されます。

藤原道長は、翌年には息子の藤原頼通(ふじわらのよりみち)に摂政を譲って後継者を明確にし、
自らは太政大臣となります(あくまで儀式に奉仕するためであって、ほどなく辞職)。
藤原道長は外戚として、また摂政の父親として、権力をふるい続けます。

1018年、後一条天皇は11歳となり、
藤原道長の三女である藤原威子(ふじわらのいし、または、ふじわらのたけこ)と結婚します。
そのときの様子を伝えるのが、あの有名な和歌をふくむ次の史料です。

(寛仁二(1018)年十月)十六日乙巳、今日、女御(にょうご)藤原威子を以(もっ)て、皇后に立つるの日なり。前(さきの)太政大臣(〔1   〕のこと)の第三の娘なり。一家に三后(さんごう、藤原彰子・妍子・威子のこと)を立つること、未(いま)だ曾(かっ)て有らず。(中略)太閤(たいこう、〔1   〕のこと)、下官(げかん、〔2   〕のこと)を招き呼びて云(いわ)く、「和歌を読まむと欲す。必ず和(わ)すべし」者(てえり)。答へて云く、「何(いずくん)ぞ和し奉(たてまつ)らざらむや」。又云ふ、「誇りたる歌になむ有る。但(ただ)し宿構(しゅくこう、前々から準備したもののこと)に非(あら)ず」者。「此(こ)の世をば我が世とぞ思ふ望月(もちづき)の かけたることも無しと思へば」。余(〔2   〕のこと)申して云く、「御歌優美なり。酬答(しゅうとう)に方(すべ)無し。満座只(ただ)この御歌を誦(じゅ)すべし」(中略)と。諸卿、余(〔2   〕のこと)の言に饗応(きょうおう)して数度吟詠(ぎんえい)す。太閤(〔1   〕のこと)和解して殊(ことさら)に和を責めず。(後略)  (出典〔2   〕『3   』、原漢文)

空欄にあてはまる語句は分かりましたか?

 1…藤原道長(太閤とは、前摂政または前関白のこと)
 2…藤原実資(ふじわらのさねすけ)
 3…小右記(しょうゆうき)

この史料は、藤原実資が記した『小右記』という日記の一部分です。
さきほどあげた系図を、もう1度見てください。

1016-4.jpg

藤原実資、いますね!
安和の変で登場した藤原実頼(ふじわらのさねより)の孫にあたる人物で、
このころ右大臣をつとめています。
藤原北家のなかでも、藤原実頼の子孫の家柄をとくに小野宮家(おののみやけ)と呼びます。
ということで、藤原実資は自らの日記のタイトルを、
「小」野宮家の「右」大臣の日「記」ということで、『小右記』としたようです。

では、内容をかいつまんで見てみましょう。

藤原威子が皇后(中宮)になる日のこと。
藤原道長は、藤原実資に「和歌を詠むので必ず返歌(へんか、返答の歌のこと)を詠むように」と言います。
それに対して藤原実資は、「どうして返歌を詠まないことがありましょうか」と反応します。
すると藤原道長は、「自慢の和歌なのだ。即興でつくったものであって、前々から準備していたものじゃない」と、
自分でハードルをあげちゃいます。

そして!
有名なあの歌を詠むのです!!

「此の世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも 無しと思へば」
この世はまるで私の世のようだ。満月に欠けるところのないように、なにも足りないものはないのだ。

ちょ…
ナニソレすごい自慢!
これにどう返せっちゅーんですか?
絶対無理でしょう…

そこで藤原実資は機転をきかせ、
「和歌がすばらしすぎて返歌を詠めません。なので、みんなでこの和歌を繰り返しましょう!」と言ったのです!
ナイス実資!!
他の人たちも彼の案に賛成し、「此の世をば…」とみんなで数回復唱したところ、
藤原道長は満足して、とくに返歌を求めることはなかった。

という内容です。

いやぁ~…こんな自慢マックスの和歌、披露されちゃぁ引きますよね…
しかもこのとき、藤原威子は20歳です。
その彼女が9歳も年下の甥っ子(おいっこ)と結婚するのです。
もう絶対まわりドン引きですよね…

1016-3.jpg

ところが藤原道長は、翌年には病に冒されるようになり、体はボロボロになってゆきます。
月は満月になると、あとは欠けていくものですからね…
このころから藤原道長は、法成寺(ほうじょうじ)という立派なお寺の造営に夢中になります。

しかし、藤原道長の気力はまだまだ衰えません!
1021年には、六女の藤原嬉子(ふじわらのきし、または、ふじわらのよしこ)を、
一条天皇と藤原彰子の間に生まれた次男(のちの後朱雀天皇(ごすざくてんのう))と結婚させるのです。
これまた、おばさんと甥っ子の結婚です。
やがて藤原嬉子は長男を出産しますが、その2日後にわずか19歳でこの世を去ってしまいます。

1028年、藤原道長は病に倒れ、12月4日に62年の生涯を閉じます。
法成寺に安置した大きな阿弥陀如来像の手と自らの手を糸で結び、念仏をとなえ、
ひたすら極楽浄土に生まれることを願っての最期だったようです。

後一条天皇の死後、藤原嬉子の旦那さんが即位して後朱雀天皇となり、
藤原嬉子の産んだ長男は、そのあとを受けて後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)となります。
後朱雀天皇と後冷泉天皇を補佐したのは、関白の藤原頼通です。
藤原頼通は、娘の藤原寛子(ふじわらのかんし、または、ふじわらのひろこ)を後冷泉天皇と結婚させますが、
男の子が生まれることはありませんでした。

結果、藤原北家を外戚としない後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が即位するのです。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

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次回は、刀伊の入寇(といのにゅうこう)を取り上げます。
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988年 尾張国郡司百姓等解が出される [年号のゴロ合わせ]

10世紀、朝廷は税制の大転換をはかります。
従来の郡司にかわって、国司に税の徴収を請け負わせることにしたのです。
その結果、国司はより強力に、より自由に、それぞれの国を統治できるようになってゆきます。

このあたりの詳しいことは、のちのちまとめプリントでお話ししようと思いますので、
ここではまず、「国司は10世紀にとてつもない力を得るようになる」、ということを覚えてください。



では、ここで問題。
国司に選ばれるのは、どんな人でしたか?

答えは、中央貴族です。
国司は、都(中央)に住んでいる貴族のなかから選ばれるんでしたよね。
そうだっけ…?という人は、飛鳥時代(8)のプリントを復習してください。
あわせて、国司の四等官が守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)であることも確認しておいてくださいね。

国司に任命されると、都をはなれ、任国(にんごく、国司として任命された国のことです)で生活します。
そして、任期(このころは4年)が来るまで、国衙(こくが)でその国の統治にあたります。
なかでも、守(かみ)レベルの国司を、受領(ずりょう)といいます。
はじめて任国に到着したときに、前任の国司から引き継ぐべきものを「受領」することが由来のようです。

本来、国司は任国で暮らすものですが、
なかには任国におもむかない国司もいたようです。
目代(もくだい)という代理人を任国に派遣し、自らは平安京で都会暮らしを続けるのです。
そりゃね~、平安京に比べればどの国だってたいてい田舎でしょうよ。
友達もいっぱい、遊ぶところもいっぱい、そんな都会で暮らす方がきっと楽しかったのでしょう。

このように、国司に任命されたのに、任国におもむかないことを遙任(ようにん)、
その国司自身を遙任国司(ようにんこくし)、とか、遙任といいます。
ちなみに、「遙」は、「遥」の旧字体です。
「遙」(はる)かカナタに目代を「任」命して派遣する、と覚えてください。

遙任国司が増えるなか、真面目に任国へおもむくのが受領です。
都にとどまる国司が多いのに、わざわざ田舎に行くわけですよ。
そうするとね、「こんな田舎に来たからにはガッポリもうけてやる!」って思っちゃうんでしょうね!
やがて強欲な受領が目立つようになります。
そんな受領を、教科書などでは「貪欲」(どんよく)なんて難しい言葉で表現しています。
大阪弁で言うと、「ガメツイ」です!

では、ガメツイ受領の代表格を2名、ご紹介しましょう。

*   *   *

1人目は、信濃国の受領であった藤原陳忠(ふじわらののぶただ)です。

藤原陳忠は、信濃守(しなののかみ)の任期を終え、都に帰ろうとしていました。
美濃国にさしかかる峠を進んでいると、彼の乗る馬が足を踏み外してしまい、
なんと藤原陳忠は、馬ごと深い谷へと転落してしまったのです!
家来たちが「死んだかな…」と、しばらく谷底をのぞいていると、
「かごに縄をつけて降ろしてくれ~!」という藤原陳忠の声。
どうやら生きてたみたいです。
そこで、家来たちは言われたとおりにし、頑張ってかごを引き上げてみると…

そこには藤原陳忠が乗っていた…のではなく!
ヒラタケというきのこが、てんこ盛りに載っていたのです!!

えぇぇぇ…なにこれ……きのこやん………と、家来たちドン引き。
すると、谷底から「もう一回かごを降ろしてくれ~!」の声。
家来たちは再び言われたとおりにし、頑張ってかごを引き上げてみると…

今度はちゃんと藤原陳忠が乗っていました!
手に大量のヒラタケをかかえた藤原陳忠が!!

えぇぇぇ…めっちゃきのこ持ってるやん……と、家来たち再びドン引き。
そんな家来たちに向かって、藤原陳忠はキリッと一言!

「受領ハ倒ル所ニ土ヲツカメ!」

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藤原陳忠は、谷底に落ちていく途中で木に引っかかったようです。
ほんとにそんな漫画みたいなことあるんですね…
で、ふとあたりを見渡してみると、なんと一面にヒラタケが生えているではないですか!
この「宝の山」をどうにかして手に入れようと、彼は先に述べたような行動をとったのです。

てゆーか、ガケの木に引っかかってるんですよ?
めっちゃ危機的状況じゃないですか!
早く助けてほしいじゃないですか!!
それなのに、おのれの身の安全の確保よりも、
この「宝の山」、すなわち「きのこの山」を絶対に持って帰る!という執念を優先させたわけです。

そう、受領はね…倒れてもタダじゃ起きてはいかんのです!
倒れたときに、そこにある土でもきのこでも、なんでもつかんで手に入れにゃぁいかんのです!!
それが、「受領ハ倒ル所ニ土ヲツカメ!」なのです。

いかに受領がガメツイか、よく分かるエピソードですね…
このエピソードの出典は分かりますか?
『今昔物語集』(こんじゃくものがたりしゅう)ですよ、お忘れなく!

それにしても、こんなことで教科書に名前が残ってしまうなんて…
なんだか恥ずかしいですね…

*   *   *

2人目は、尾張国の受領であった藤原元命(ふじわらのもとなが)です。

彼はあまりにもガメツイ受領であったため、任国にやって来て3年目の988年、
任国に住む郡司や百姓たちから訴えられてしまいます。
その訴状が、「尾張国郡司百姓等解」(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげ)です。
「尾張国郡司百姓等解文」(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげぶみ)と表記することもあります。

では、藤原元命がどれほどガメツイ受領であったのか、訴状を見てみましょう。
訴えは全部で31ヶ条ありますが、長いので一部分だけ紹介します。

〔1   〕国郡司百姓等解(げ)し申し、官裁(かんさい、太政官による決裁のこと)を請(こ)ふの事
 裁断(さいだん)せられむことを請ふ、当国の守(かみ)藤原朝臣(あそん)〔2   〕、三箇年の内に責め取る非法(ひほう)の〔3   〕、并(あわ)せて濫行(らんぎょう)横法(おうほう)三十一箇条の□□(愁状(しゅうじょう)カ)
一、裁断せられむことを請ふ、例挙(れいこ、定例の出挙のこと)の外に三箇年の収納、暗(そら)に以て加□(徴カ)せる正税四十三万千二百四十八束が息利(そくり)の十二万九千三百七十四束四把一分の事(中略)
一、裁定せられむことを請ふ、守〔2   〕朝臣、庁の務(まつりごと)無きに依(よ)りて、郡司百姓の愁(うれい)を通じ難(がた)き事(中略)
一、裁断せられむことを請ふ、守〔2   〕朝臣、京より下向(げこう)する度(たび)毎(ごと)に、有官(うかん、位をもち官職についている者のこと)・散位(さんに、位をもつが官職についていない者のこと)の従類、同じき不善の輩(ともがら)を引率(いんそつ)するの事(中略)
以前(さき)の条の事、憲法の貴きを知らむが為(ため)に言上すること件(くだん)の如(ごと)し。(中略)仍(より)て具(つぶ)さに三十一箇条の事状を勒(ろく)し、謹(つつし)みて解(げ)す。
 永延二年(988年)十一月八日 郡司百姓等  (出典「〔1   〕国解文」)

空欄にあてはまる語句は分かりましたか?
入試では、2行目にある「裁断せられむことを請ふ、当国の守…」の一文がよく出題されるので、
空欄はしっかり埋められるようにしておいてください。

 1…尾張
 2…元命(もとなが)
 3…官物(かんもつ、このころ租庸調制にかわって新しくもうけられた税のこと)

この訴状の内容を簡単に訳すと、次のようになります。

うちの国の受領である藤原元命が、この3年間に奪い取った非合法の官物と、彼のヒドい行動とについて、31ヶ条にまとめましたので、裁決をお願いします。
一(1条目)、定例の出挙のほか、43万1248束の稲と、12万9374束4把1分の利息が、こっそり余分にとりあげられました。
一(26条目)、藤原元命は、都にいるだとか、物忌(ものいみ、ナニかに取り憑(つ)かれたりして、屋内で謹慎すること)だとか、色んな理由をつけて国衙で政務をとらないので、郡司や百姓たちの嘆願が伝わりません。
一(30条目)、藤原元命は、都から帰ってくるたびに、よからぬヤツをいろいろ連れてきます。
以上、国家の法は貴く、またそれを破った者はきちんと処分される、ということを知るために言上しました。31ヶ条にわたって詳しく記し、謹んで申し上げます。

いや~…3ヶ条見ただけでもコレですよ。
あまりにヒドイ、訴えられて当然です。

結果、朝廷は郡司や百姓たちの訴えを聞き入れ、翌年、藤原元命を解任します。
ほんとザマァァ!!ですね。

藤原元命については訴状が残っていたため、このように詳しく知ることができますが、
きっと他の国にも、こんなガメツイ受領がいたのでしょうね…おそろしや……

ちなみに「解」(げ)とは、下級官庁から上級官庁へ申し上げる文書のことです。
逆に、上級官庁から下級官庁へ下される命令は、「符」(ふ)といいます。

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たとえば、902年の語呂合わせで紹介した延喜の荘園整理令は、
「太政官符す」という文で始まっていますよね。
延喜の荘園整理令は、太政官から下された「符」なのです。
これを、太政官符(だいじょうかんぷ、または、だじょうかんぷ)といいます。

*   *   *

最後に、まとめておきましょう。

10世紀、国司が徴税を請け負うようになり、ガメツイ受領があらわれます。
代表者は次の2名です。
 ・信濃国-藤原陳忠(『今昔物語集』)
 ・尾張国-藤原元命(「尾張国郡司百姓等解」)
しっかりと区別して覚えておいてください。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

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988年は重要な年号ではありませんが、
「国司は10世紀にとてつもない力を得るようになる」ことを覚えてもらうために、
ゴロ合わせを作っておきました。

余談ですが、昔の日本には、下の名前を音読みする習慣がありました。
たとえば、源義経なら「ギケイ」、織田信長なら「シンチョウ」です。
彼らにまつわる書物を、『義経記』(ぎけいき)、『信長公記』(しんちょうこうき)と呼ぶのはそれゆえです。

というわけで、藤原元命を音読みすると「ゲンメイ」です。
尾張国郡司百姓等解は、「オワリ」・「ゲンメイ」で国名と受領の名前を覚えてくださいね!



次回は、藤原道長を取り上げます。
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969年 安和の変が起こる [年号のゴロ合わせ]

藤原北家による他氏排斥事件のラストは、安和の変(あんなのへん)です。
安和2年(969年)に起きた、なんともしっくりこない事件です。



村上天皇が亡くなると、かわって息子の冷泉天皇(れいぜいてんのう)が即位します。
冷泉天皇は、なにやら精神的な病を抱えていたようで、
藤原実頼(ふじわらのさねより)が関白として補佐にあたることになります。
前回触れましたが、藤原実頼は村上天皇の時代に権力を握っていた人物です。

この藤原実頼、冷泉天皇とはどのような関係なのでしょうか。

冷泉天皇のお母さんは、藤原安子(ふじわらのあんし、または、ふじわらのやすこ)です。
彼女は、藤原実頼の弟である藤原師輔(ふじわらのもろすけ)の娘です。
つまり、藤原実頼にとって冷泉天皇は、姪っ子(めいっこ)の子どもなのです。

969-1.jpg

そうなんです!
藤原実頼と冷泉天皇は、外戚関係にないのです!!
これ、あとあと問題になりますので、覚えておいてくださいね。

じゃあ冷泉天皇の外戚である藤原師輔が関白になればいいじゃん!と思うでしょうが、
残念ながら藤原師輔はすでにこの世を去っているので、無理なのです…

*   *   *

冷泉天皇には精神的な病があることに加え、子どもがいないため、
即位してすぐに皇太子を決めることになります。
候補者として名前があがったのは、冷泉天皇の弟たち、
為平親王(ためひらしんのう)と守平親王(もりひらしんのう)です。
為平親王がお兄ちゃん、守平親王が弟です。

まわりは「年上の為平親王が選ばれるに違いない」、と思っていたようですが、
実際に皇太弟となったのは、まさかまさか弟の守平親王でした。

おそらく藤原実頼の画策でしょう…
なぜなら、為平親王の奥さんは、源高明(みなもとのたかあきら)の娘だからです。
(下の系図では「女」とありますが、それは名前が伝わっていないからです…)

969-2.jpg

源高明は、醍醐天皇の息子です。
幼いころに臣籍降下(しんせきこうか)し、源の姓を名乗っています。
彼は、藤原師輔の娘(この女性も名前が伝わっていません…)と結婚したりして、
どんどん朝廷内で力をのばし、
冷泉天皇の時代には左大臣に抜擢(ばってき)されるに至ります。
左大臣ということは、関白に次ぐ政界のナンバー2です。

関白の藤原実頼にとって、左大臣にのぼりつめた源高明は、ただでさえ邪魔な存在です。
それなのに、もし為平親王が即位して、源高明の娘の産んだ子が天皇になったとしたら…

そう、源高明は天皇の外戚となるのです!

冷泉天皇の外戚ではない藤原実頼にとって、これは許せることではありません。
そこで藤原実頼は、守平親王が皇太弟になるようゴリ押ししまくり、
なんとか為平親王が皇太弟になることを阻止したのです。

やれやれ、これにて一件落着…

ではありません。
藤原実頼にとって、源高明はやっぱり邪魔なのです。

*   *   *

2年後。
969年のことです。

源経基(みなもとのつねもと)の息子である源満仲(みなもとのみつなか)が、
謀反(むほん)を起こそうとしている人物がいる、というような密告(みっこく)をします。
密告がどんな内容であったのか、詳しくは伝わっていません。
とにかく、源満仲が「なんか怪しいことを考えているヤツがいるよ!」と、朝廷にチクったのです。

すると…

源高明は、さてはあなたもこの「怪しいこと」に関わってんじゃないの?
もしかして娘の旦那さんである為平親王を即位させようとしてるんじゃないの??と疑われるのです。
そして、おそろしいスピードで大宰権帥(だざいのごんのそち、または、だざいのごんのそつ)に左遷されてしまうのです。

源高明が「怪しいこと」に関わっていたのか、義理の息子である為平親王を擁立しようとしていたのか、
本当のところは分かりません。
とにもかくにも、藤原実頼にとって邪魔で仕方なかった源高明が、
ドサクサにまぎれて九州に追いやられてしまったのです。
これはもう…藤原実頼の策略としか思えませんよね…

うーん、なんともしっくりこない事件です…

*   *   *

これにて藤原北家による他氏排斥は完了です。
もはや藤原北家には逆らう者は現れず、彼らの勢力は不動のものになります。
以降、摂政・関白は必ず置かれるようになり(一部例外はありますが…)、
藤原忠平(ふじわらのただひら)の子孫がこれに就任するのがきまりとなります。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

969年.jpg
わけのわからんイラストですいません…
アンナの変ということで、アンナです(笑)
全国のアンナちゃんは、この授業のときにはみんなからイジられるんでしょうか…がんばれ!



次回は、尾張国郡司百姓等解(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげ)を取り上げます。
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