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平安時代(7) [まとめプリント]

今日は、藤原北家(ふじわらほっけ)による政治の3回目、
藤原道長(ふじわらのみちなが)・藤原頼通(ふじわらのよりみち)親子の時代を取り上げます。



摂関政治(せっかんせいじ)とは、摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)が引き続いて任命され、
政権の最高の座にあった10世紀後半から11世紀ごろにかけての政治を指します。

天皇が幼少の時に置かれるのが摂政、
天皇が成人してから置かれるのが関白です。

安和の変ののち、摂政・関白は常置(じょうち、常に置かれること)となり、
藤原北家のなかでもとくに、藤原忠平(ふじわらのただひら)の子孫から任命されることになります。
摂政・関白を排出するこの家柄を、摂関家(せっかんけ)と呼びます。

摂関家は、鎌倉時代になると、
近衛(このえ)・鷹司(たかつかさ)・一条(いちじょう)・二条(にじょう)・九条(くじょう)に分かれます。
まとめて五摂家(ごせっけ)といいます。
これは、ニ(二条)ク(九条)イ(一条)タ(鷹司)コ(近衛)、「憎いタコ」でパパッと覚えてしまいましょう!

ちなみに、五摂家の姓は、みーんな藤原ですよ!
近衛とか鷹司というのは、それぞれの家がある地名などからとった、名字なのです。
鎌倉時代には、姓よりも名字を名乗るようになるため、
藤原を姓とする摂関家は、近衛・鷹司・一条・二条・九条の名字を名乗る五摂家に分かれた、
というワケです。
姓と名字の違いについては、飛鳥時代(5)で復習してくださいね!

さて、摂政・関白に任命されると、一体どうなるのでしょうか。

まず、「一の人(いちのひと)」とか、「殿下(でんか、または、てんが)」という敬称で呼ばれます。
また、藤原氏の「氏の長者(うじのちょうじゃ)」も兼ねることになります。
「氏の長者」とは、氏のリーダーのことで、
氏寺(うじでら、藤原氏の場合は興福寺(こうふくじ))や、
氏社(うじしゃ、氏神(うじがみ)を祀る神社のこと、藤原氏の場合は春日大社(かすがたいしゃ))、
大学別曹(だいがくべっそう、藤原氏の場合は勧学院(かんがくいん))の管理のほか、
一族の官位推挙(かんいすいきょ、誰をどの官職や位階に推挙するか)にあたります。

そう、摂政・関白に任命されると、それはそれはとんでもない権力を手にすることになるのです!!

*   *   *

では、ちょっとギュウギュウ詰めで見にくいとは思いますが、
プリントを使って摂関政治をまとめていきましょう!

このプリント、黒字を全部覚える必要はありませんからね!
空欄のところをしっかり覚えてください!!

平安7.jpg

安和の変で他氏排斥が完了し、藤原北家の地位は不動のものとなります。
とはいえ、内部では摂政・関白の地位をめぐるゴタゴタが起きています。
系図を使って、2例見ておきましょう。

平安7-2.jpg

摂関家のゴタゴタ、1例目(上の系図の赤い部分)は、
兄の藤原兼通(ふじわらのかねみち)と、弟の藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の争いです。

藤原兼通は、息子が源高明(みなもとのたかあきら)の娘と結婚しているということもあり、
藤原兼家よりも、出世が遅れていました。
弟に先を越されるだなんて、お兄ちゃんとしてはやっぱり焦りますよね…

そんななか、円融天皇(えんゆうてんのう)の摂政をつとめる藤原伊尹(ふじわらのこれまさ)が、
危篤(きとく)に陥(おちい)ります。
すると、藤原兼通と藤原兼家は、その座をめぐって争うようになるのです。
といっても、そもそもたいして出世できていない藤原兼通は、弟に勝てそうにありません。

そこで!
藤原兼通は奥の手を使うのです!!

あるとき藤原兼通は、円融天皇に1枚のメモを見せます。
メモには、「将来、摂政・関白になることがあれば、必ず兄弟の順を守るように」、とあります。
これを書いたのは、藤原兼通の妹である藤原安子(ふじわらのあんし、または、ふじわらのやすこ)です。
実はこの女性、円融天皇の亡きお母さんなのです!

結果、円融天皇は、母の遺言(ゆいごん)に従わざるを得ず、
藤原兼通は見事、関白に任命されるのです!!(円融天皇はこの年に成人)

いや~、来たる日に備えて、妹にこんなメモを書かせていただなんて…
藤原兼通、やりますな!

ちなみに、弟の藤原兼家は、のちのち一条天皇(いちじょうてんのう)の摂政に就任しています。
なお、藤原兼家といえば、奥さんが有名です。
『蜻蛉日記(かげろうにっき)』の作者、藤原道綱(ふじわらのみちつな)の母なのです!
また、国風文化(こくふうぶんか)で紹介しますね。

摂関家のゴタゴタ、2例目(上の系図の青い部分)は、
叔父の藤原道長と、甥っ子の藤原伊周(ふじわらのこれちか)の争いです。
これは、1019年のゴロ合わせに詳しく書きましたので、そちらをご覧ください。

2人の争いは、藤原道長の勝利に終わり、彼は内覧(ないらん)という役職に就任します。
内覧とは、摂政・関白と同じような職務を担う、関白に準ずるものです。
基本、摂政・関白に任命された者が、これを兼ねるのですが、
このとき藤原道長は関白には就かず、左大臣のまま内覧になっています。
令外官(りょうげのかん)である関白になるより、
まずは左大臣として、太政官を盤石(ばんじゃく)なものにしたかったようです。

このあと藤原道長は、外戚関係(がいせきかんけい)を築くべく、
娘たちを天皇(または皇太子)と結婚させまくります。
ここでは簡単に述べるにとどめますので、詳しくは1016年のゴロ合わせをご覧ください。

平安7-3.jpg

まず最初に、長女の藤原彰子(ふじわらのしょうし、または、ふじわらのあきこ)を、
一条天皇の中宮(ちゅうぐう)とします。

次に、次女の藤原妍子(ふじわらのけんし、または、ふじわらのきよこ)を、
三条天皇(さんじょうてんのう)の中宮とします。

三条天皇にかわって、後一条天皇(ごいちじょうてんのう)が即位すると、
藤原道長はついに摂政に就任します。
そうです、藤原道長にとって後一条天皇は、娘の藤原彰子が産んだ、かわいいかわいい孫です。
こうして藤原道長は、外戚関係を利用して絶大な権力を手にするのです!

とはいえ、すぐに息子の藤原頼通にその座を譲り、自らは太政大臣に就任します。
摂政・関白の座は、俺の子孫が継ぐのだ!という、まわりへのアピールでしょうね…

さらに藤原道長は、三女の藤原威子(ふじわらのいし、または、ふじわらのたけこ)を、
後一条天皇(ごいちじょうてんのう)の中宮とします。
このとき詠(よ)んだのが、あの有名な
「此(こ)の世をば 我が世とぞ思ふ 望月(もちづき)の かけたることも 無しと思へば」という和歌です。
出典は、藤原実資(ふじわらのさねすけ)の日記である『小右記(しょうゆうき)』です。

さらにさらに藤原道長は、六女の藤原嬉子(ふじわらのきし、または、ふじわらのよしこ)を、
敦良親王(あつながしんのう、のちの後朱雀天皇(ごすざくてんのう)に嫁がせます。

後一条天皇も、後朱雀天皇も、藤原彰子が産んだ子です。
つまり、藤原威子と藤原嬉子は、お姉ちゃんが産んだ甥っ子と結婚したということになるのです。

ハイ、すごくややこしくなってきたので、藤原彰子目線で登場人物を並べてみましょう。

平安7-1.jpg

うわぁ~…サザエさん家どころではない、複雑で入り組んだ家庭環境ですね…
これをやってしまう藤原道長、すごいわ……

後朱雀天皇にかわって即位するのは、藤原嬉子が産んだ後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)です。
藤原頼通は、彼に1人娘である藤原寛子(ふじわらのかんし、または、ふじわらのひろこ)を嫁がせますが、
2人の間に子どもが生まれることはありませんでした。

結果、次に即位するのは、藤原北家を外戚としない後三条天皇(ごさんじょうてんのう)です。
藤原北家の全盛期は、ここで終わることになるのです。

刀伊の入寇(といのにゅうこう)については、1019年のゴロ合わせで確認しておいてくださいね!

最後に、解答を載せておきましょう。

平安7解答.jpg



次回から2回にわたって、国風文化をまとめていきます。

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歴史好き

最近このブログを発見して、あっという間に追いついてしまいました。
次の記事が待ち遠しいです^_^
お忙しいとは思いますが是非続けてくださいね!
by 歴史好き (2018-02-10 06:23) 

春之助

歴史好き様
嬉しいコメント、ありがとうございます!
のろのろ更新で申し訳ありませんが、
これからもよろしくお願いいたします★
by 春之助 (2018-02-12 13:03) 

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