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939年 承平・天慶の乱が起こる② [年号のゴロ合わせ]

前回に引き続き、承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)を取り上げます。
今日見ていくのは、藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)です。



藤原純友(ふじわらのすみとも)は、このころ絶大な権力を誇っている藤原北家の人間です。
しかし、藤原純友はお父さんを早くに亡くしており、すっかり出世コースからはずれてしまっています。

そんなあるとき、藤原純友の親戚のおじさんが、伊予国(いよのくに)で1番エラい国司に任命されます。
(伊予国がどこだか忘れてしまった人は、飛鳥時代(11)を復習ですよ!)

さて問題。
1番エラい国司って何でしたか?
分からない人は、飛鳥時代(8)のプリントの右下にある、四等官制の表を確認してください。
国司の四等官は、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)でしたね。
つまりおじさんは、伊予守(いよのかみ)に任命されたのです。
藤原純友は伊予掾(いよのじょう)として、おじさんと一緒に伊予国に行くことになります。

このころ、瀬戸内海では海賊が暴れまわっており、
藤原純友は、おじさんから海賊の討伐を任されることになります。

そして4年後…

国司の任期を終えたおじさんは、都に帰ってゆきます。
藤原純友ももちろん伊予掾としての任期を終えたので、都に帰るのかと思いきや、
そのまま伊予国にとどまります。
どうせ都に帰ったところで、出世コースからはずれてしまっていますからね…
それよりなにより藤原純友は、このころ海賊のリーダーになっていたのです!

939-2-2.jpg

藤原純友は日振島(ひぶりしま)を根拠地として、なんと1000もの船を組織していたというのです。
都では出世できそうになかった彼ですが、海賊たちの間で大出世を成し遂げたのです。
ちなみに、日振島の場所はここです↓
939-2-1.png
(Craft MAPより作成)

海賊のリーダーである藤原純友は、やがて朝廷と対立し、
939年には海賊を率いて反乱を起こします。
同じころ、関東では平将門が反乱を起こしており、
朝廷は両者の共謀(きょうぼう)を疑い、パニックに陥ります。

朝廷は、小野好古(おののよしふる、小野篁の孫です)を追捕使(ついぶし)に任命し、
源経基(みなもとのつねもと)らとともに事態の収束にあたらせます。
なお、追捕使とは、平安時代(1)のプリントの左下にある表にも登場しましたが、
諸国の盗賊や海賊などを「追って捕らえる」ことを目的に設置された、令外官(りょうげのかん)です。

藤原純友は瀬戸内の国府を次々と襲い、さらに大宰府を占領します。
しかし、小野好古らの軍勢が九州に到着すると、
藤原純友は大宰府を焼き払ってこれを迎え撃たんとしますが、敗北してしまいます。
なんとか伊予国に逃れた藤原純友ですが、そこで捕らえられ、やがて獄中で亡くなります。
941年のことです。

*   *   *

939年に関東地方で起こった平将門の乱、そして、瀬戸内地方で起こった藤原純友の乱。
両者を鎮圧したのは朝廷の軍隊ではなく、押領使や追捕使に任命された地方武士です。
地方武士の実力を知った朝廷や貴族は、このあと武士の力を積極的に頼るようになっていきます。

つまり、承平・天慶の乱によって、
朝廷の軍事力の低下が明確になり、地方武士の組織がいっそう強化されることになるのです。

それでは、前回と今回のぶんのゴロ合わせ☆

939年.jpg

ちなみに、平将門と藤原純友について、こんな伝説が残っています。

かつて平将門と藤原純友は、それぞれ平安京で働いていました。
あるとき2人は比叡山にのぼり、平安京を見下ろしながら約束しました。
「いつか一緒に反乱を起こして都を奪おう。
そして、桓武天皇の子孫である平将門は天皇に、藤原氏である藤原純友は関白になろう!」、と。

この話、あくまで伝説であって、史実ではないと思われます。
あまりにも同じタイミングで両者の反乱が起きたため、
2人は共犯ではないか…というウワサが広がったのでしょうね。



次回は、村上天皇(むらかみてんのう)による親政を取り上げます。

画像出典
http://www.craftmap.box-i.net/
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