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平安時代(1) [まとめプリント]

今日から平安時代のまとめプリントを取り上げます。



平安時代は長いですよ~…
しかも藤原まみれでややこしい……
めげずに頑張っていきましょう!

平安1.jpg

781年、光仁天皇(こうにんてんのう)と高野新笠(たかののにいがさ)の子である桓武天皇(かんむてんのう)が即位します。
天武天皇・文武天皇・聖武天皇・桓武天皇……と、
「武」のつく天皇はたくさんいますので、しっかり整理しておいてくださいね!

それでは、桓武天皇の政治を3つに分けて見ていきましょう。

最初は、プリントの左がわにある「政治改革」です。

光仁天皇は、行財政の簡素化や公民の負担軽減などに取り組みました。
桓武天皇は、そんな父の政治再建政策を受け継いでゆきます。

792年に軍団兵士制を廃止し、かわって健児の制を採用します。
さらに、公出挙の利率を5割から3割に引き下げたり、
雑徭の日数を年間最大60日から30日に半減したりと、
公民の負担を軽くするための改革を次々とおこないます。

また、班田収授も見直します。

このころ、墾田永年私財法が成立してからすでに50年以上が経っており、
人口と荘園が増える一方、班田として与えるべき国の土地は不足していました。
しかも、浮浪・逃亡する農民がいるわ、戸籍をごまかす農民がいるわで戸籍はもうぐちゃぐちゃ。
ただでさえ大変な班田収授の事務作業は、ますます大変になっています……
ということで、班田収授はもはやガタガタの状態です。

そこで桓武天皇は、6年に1度とはいわない!せめて12年に1度でいいから班田収授を続けよう!!
と考えたのです。
班田収授を12年に1度おこなうことを、一紀一班(いっきいっぱん)と呼びます。

ところがやっぱり墾田永年私財法がある以上、班田収授はうまくいかないのです…
9世紀になると、班田が30年、50年とおこなわれない地域が増えてゆき、
ついに、902年の班田が最後となってしまいます……
最後の班田については、のちのち触れたいと思います。

そのほか、桓武天皇は、国司の監督を強化するため、勘解由使(かげゆし)を設置します。
勘解由使は、新しく設置された官職なので、もちろん律令の令には規定されていません。
このような官職を、まとめて令外官(りょうげのかん)といいます。
「令」の「外」に新しく規定された「官職」、ということで令外官です。
プリントの左下に表をつくってまとめておきましたので、参考にしてください。

漢字も読み方も覚えにくい厄介な存在、勘解由使…
国司が提出する「解由状(げゆじょう)」を「勘」ぐるヒト、と覚えてください。

国司は、中央貴族が任命される官職で、このころ任期は4年です。
4年たてば、都から新しく任命された国司がやってきます。
すると、これまでの国司は、新しい国司に仕事の引き継ぎをします。

引き継ぎが終わると、新しい国司は「前任者からの事務引き継ぎが完了しました!」という証明書を書いて、
これまでの国司に渡します。
この証明書が解由状です。
そして、これまでの国司は都に戻り、解由状を式部省に提出し、新たな官職に任命してもらうのです。

しかし…すんなりと事務引き継ぎが完了しない場合があります。
これまでの国司が税をとりすぎていたとか、お給料を多くもらっていたとか、不正をしている場合です。
不正を目の当たりにした新しい国司が解由状を書かず、なかなか国司が交替できなかったり、
これまでの国司が新しい国司にワイロを渡してウソの解由状を書いてもらったり…
そんな事態がたくさんあったようです。

こうして、解由状を審査する勘解由使が置かれたのです。

平安1-1.jpg

続いては、プリントの真ん中のブースにある遷都です。

桓武天皇は、784年に長岡京遷都
さらに794年には平安京遷都を行います。
これらについてはゴロ合わせで詳述しましたので、それぞれのページをご覧ください。

最後に、プリントの右はしのブース、蝦夷(えみし)との戦いを見ていきましょう。

光仁天皇の時代に伊治呰麻呂の乱が起こって以降、
東北地方では30年以上にわたって、蝦夷との戦いが続いていました。

そこで桓武天皇は、789年に東北地方へ大軍を派遣します。
伊治呰麻呂の乱で蝦夷と戦った経歴をもつ紀古佐美(きのこさみ)を
征東大使(せいとうたいし、または征東大将軍(せいとうだいしょうぐん))に任命し、
胆沢(いさわ)地方(現在の岩手県奥州市のあたり)の蝦夷を制圧しようとしたのです。

しかし、この胆沢地方の蝦夷がなかなか手強い!
族長の名は、阿弖流為(あてるい、または大墓公阿弖利為(たものきみあてりい))といいます。
彼の活躍によって、紀古佐美はボッコボコにされてしまうのです…

797年、桓武天皇は、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命します。
征夷大将軍も令外官ですよ、プリントの左下にある表にも載っていますね。
これがのちのち幕府をひらく存在になってゆきます。
略して「将軍」です。

さてその征夷大将軍・坂上田村麻呂。
801年に軍を率いて東北地方へゆき、蝦夷との戦いを制します。
翌802年には阿弖流為らの降伏を認め、この地に胆沢城(いさわじょう)を築きます。

ちなみに、阿弖流為は都に連れていかれ、処刑されてしまいました。
坂上田村麻呂は助命を訴えたようですが…

京都には坂上田村麻呂が建立した有名な清水寺(きよみずでら)がありますが、
そこにはこんな石碑があります。

P3294759.JPG

暗い写真ですいません…
なぜか夜に撮ったものしか見つからなくって……

たとえ暗くとも、阿弖流為の名前が刻まれているのが分かりますよね。
隣の母礼(もれ)とは、阿弖流為とともに処刑された、蝦夷のリーダーとされる人物です。
清水寺にお参りされる際は、ぜひこちらも探してみてくださいね★
出口付近にありますので、見落とさないように!

803年、坂上田村麻呂は胆沢城のさらに北に志波城(しわじょう)を築きます。
これによって、朝廷の支配は北上川の北部にまでおよぶようになったわけです。

そんななか、805年に徳政論争(徳政相論)が行われます。
詳しくはゴロ合わせのページをご覧ください。
この徳政論争で、桓武天皇は藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)の意見を採用し、
軍事(ぐんじ、蝦夷との戦い)と造作(ぞうさく、平安京の造営)の二大政策の打ち切りを決定します。

が!
蝦夷との戦いは急にやめられません、戦いが一段落するまで継続されます。
続きは次のプリントで見ていきましょう!

それでは、最後に解答を載せておきます。

平安1解答.jpg



次回は、桓武天皇の息子である平城天皇と嵯峨天皇の時代を取り上げます。
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コメント 3

Mi

最近見つけて読み始めました。とてもわかりやすく、イラストもかわいくて勉強するときに役に立っています。是非、この後の時代も続けて頂きたいです。
by Mi (2016-10-21 16:57) 

るん

こちらのイラストが大好きです。
娘が勉強に役立てています。大変分かりやすく、中間テストですごく役に立ちました。
他の方同様、この後の時代も是非お願いしたいです。
本を出してほしい位です。
by るん (2016-10-29 16:50) 

春之助

Mi様 るん様

コメント、ありがとうございます!
勉強に役立てて下さっていると知り、とても嬉しいです!!
多忙につき、なかなかブログの更新ができずにおります…申し訳ありません。
近いうちに再開したいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
by 春之助 (2016-10-29 20:11) 

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