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奈良時代(6) [まとめプリント]

今日から2回にわたり天平文化をとりあげます。



天平文化は、聖武天皇と光明皇后の時代、8世紀初頭から末にかけて、平城京を中心にさかえた文化です。
特徴を簡単にまとめると、
・律令国家確立期の華やかな文化
・鎮護国家の思想にもとづく仏教文化
・遣唐使によりもたらされた唐の文化の影響を強くうけた国際色豊かな文化
となります。

奈良6.jpg

最初に、宗教を見ていきましょう。

天平文化がさかえたころ、仏教は国家の保護を受けてますます発展しました。
「仏教には国家を鎮(しず)めて護(まも)る力がある!」という、鎮護国家の思想が根底にあったからです。

なかでも聖武天皇はとくに仏教をあつく信仰し、国分寺建立の詔大仏造立の詔を出しました。
そして、聖武天皇の娘である孝謙天皇の時代には、大仏開眼供養が盛大にとりおこなわれました。

孝謙天皇はのちに重祚して称徳天皇となりますが、
そのさい恵美押勝の乱で亡くなった人々の供養と鎮護国家を願って、
百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)をつくらせます。
奈良時代(3)のイラストでも紹介した、20cmくらいの木製の三重塔、これを100万個つくり(す、すごい数……)、
法隆寺や東大寺など10のお寺に10万個ずつおさめたものが「百万塔」(ひゃくまんとう)です。

百万塔の中心部分は、卒業証書を入れる筒みたいな感じで、円筒状の空洞になっていて、
そこに4種類の「陀羅尼経」(だらにきょう)をおさめました。
これをまとめて「百万塔陀羅尼」と呼ぶわけです。

陀羅尼経はなかなか長いお経なんだそうです。
なかなか長いので、さすがのお坊さんもよんでいる最中についウトウト…zzz
そんなときに登場するのが、「陀羅尼助丸」(だらにすけまる)です。

ご存知ですか?
奈良県の吉野を中心につくられている、にがーいにがーい胃腸薬です。

無題.png
(フジイ陀羅尼助丸HPより)

こんな感じで、ボトルに小さくて黒い粒がたっぷり入っています。
これ、成人の服用数が1回あたり30粒なんですよ(製品により異なるようですが)。
なので、10粒ずつすくえるスコップみたいな便利グッズまでついています。

薬を1回にたくさん飲むのってなかなか難しいですよね…
飲み込むのに失敗して、口の中に陀羅尼助丸が数粒でも残ろうもんなら…んもうにがいことにがいこと……

私の陀羅尼助丸との出逢いは、小学生のときでした。
田舎に住むおばあちゃんが農協の遠足で吉野に行って、まさかまさかでこれを買ってきてくれたのです。
孫へのお土産がなぜ「陀羅尼助丸」という物々しい名前の胃腸薬なんだと…
本気でショックでした…
でもそれ以来、お腹が痛くなったら陀羅尼助丸に頼っていましたねぇ…にがかったけど。

すいません、話がそれました。
陀羅尼経の話に戻しましょう。

なかなか長い陀羅尼経をよんでいる最中、ついウトウト…
そんなとき、口に入れて頭をシャッキリさせよう!と生まれたのが、このにがい陀羅尼助丸なのです。
現代でいう「フリスク」みたいなもんですね(笑)

ところでこの陀羅尼経、百万塔に入れるということは、100万枚必要なわけです。
いまならコピー機をピッとすれば簡単に印刷できますが、
(それでも100万枚となればすごい時間かかるでしょうね…コピー代も1枚10円で1000万円かかりますしね…)
もちろん奈良時代にコピー機なんてありません。
そこでどうするかというと、お経の版画をつくるのです。

小学生の時に版画ってやりませんでしたか?
私も小学生のとき、木を彫ってつくった作品の上に紙をのせ、
バレンという他ではまず見ることのない画材でもって執念深くこすりたおした記憶があります。

版画のもとになる作品を木でつくると木版(もくはん)、銅製の板でつくると銅版(どうばん)、と呼ばれます。
陀羅尼経は木版か銅版か定かではないのですが、年代の明白な世界最古の印刷物なんだそうです。
すごくないですか?世界最古なんですよ!!

100万個つくられた百万塔陀羅尼は、現在 法隆寺が4万5000個ほど所蔵しているほか、
博物館や個人がいくつかもっているようです。

なお、「中川政七商店」という奈良の老舗が手がける「遊中川」というブランドからは、

遊中川.png

こんな百万塔柄のバッグまで発売されています(左から2番目のグリーンのです)。
お、おしゃれじゃないか!百万塔!!

百万塔陀羅尼だけでずいぶん長々と語ってしまいました…
先に進みましょう!!

奈良時代、国分寺や大仏、百万塔陀羅尼がつくられたほか、
お寺の田んぼ(寺田、じでん)は税が免除される不輸租田(ふゆそでん)であったり、
お坊さんの課役は免除であったりと、国家は仏教を手厚く保護します。

一方で、厳しい統制をかけました。

お坊さんと尼さんを僧尼令(そうにりょう)という法律で規制し、
さらに僧綱(そうごう)というお坊さんの官職をもうけて彼らの監督にあたらせたのです。

そんなお坊さんたちによって、このころ南都六宗(なんとろくしゅう・なんとりくしゅう)が形成されます。
三論宗(さんろんしゅう)・成実宗(じょうじつしゅう)・法相宗(ほっそうしゅう)
倶舎宗(くしゃしゅう)・華厳宗(けごんしゅう)・律宗(りっしゅう)の6種類をまとめた名称です。
これらは、のちの浄土真宗や曹洞宗といったような実践方法の異なる宗派(しゅうは)ではなくて、
あくまでも仏教を研究するための学派(がくは)、つまり学問グループです。
それぞれ学ぶテーマを設定して研究するのです。
大学に文学部や法学部、理学部がある、ザックリそんな感じと思ってください。

たとえば、律宗は戒律をテーマに研究する学問グループです。
鑑真の来日によってちゃんとした戒律がもたらされ、律宗はますますさかんになりました。

また、華厳宗は華厳経(けごんきょう)というお経をテーマに研究しました。
この学問グループの中心人物は、良弁(ろうべん)というお坊さんです。

奈良6-1.jpg

赤ちゃんのころ、まさかのワシにさらわれるという悲しい過去を持る男です。
その後、お寺の杉の木に引っかかっているところを義淵(ぎえん)というお坊さんに救われます。
そして、義淵のもとで修行して立派なお坊さんとなり、のちのち東大寺の初代別当(べっとう)になったそうです。
ちなみに、お母さんとは30年後に再会できたそうですよ。

次に、社会事業をみていきましょう。

法相宗を学んだ行基(ぎょうき)というお坊さんは、
貧しい人を救済する施設をつくったり、必要な場所に橋をかけたり、様々な人助けをおこないました。
当時、お坊さんがお寺の外で活動することは僧尼令によって禁止されていたので、
行基はたびたび朝廷から弾圧されました。
しかし、大仏造立の詔が発令されて以降、大仏の造立に力を尽くす行基の行動は朝廷を動かし、
お坊さんにとって最高の地位である大僧正(だいそうじょう)を日本で初めて授かることになったのです。
行基はその後も大仏の造立に協力しましたが、大仏の完成を見ることなく81歳でこの世を去りました。

次に、聖武天皇の奥さんである光明皇后です。
彼女は平城京に悲田院と施薬院をつくります。
前者は孤児・病人を収容する施設、後者は病人に薬を施して治療する施設です。

また、宇佐八幡神託事件でちらっと登場した和気広虫(わけのひろむし)は、恵美押勝の乱ののち捨て子の養育に当たりました。

続いて、教育を取りあげます。

官吏を養成するための学校として、中央に大学、地方に国学がおかれました。
式部省の管轄下にあった大学は、貴族の子弟などを対象に、
明経道(みょうぎょうどう)・明法道(みょうぼうどう)・紀伝道(きでんどう)などの教科を学びました。
また、各国の国府につくられた国学では、郡司の子弟などが学びました。
大学・国学を修了したのち試験に合格すれば、官吏として朝廷に仕えることができたのです。

最後に歴史・文学を見ておきましょう。

律令国家が確立すると、「ここは日本という国なんだ!」という国家意識が高まります。
すると、「どうしてこの国には天皇がいるのだろう…」とか、「なぜこの国は朝廷によって統治されているのだろう」とか、さまざまな疑問をもつ人があらわれます。
こういった疑問にこたえるためもあって、
8世紀に入るとたてつづけに『古事記』『風土記』『日本書紀』が編纂されます。
それぞれの詳細はゴロ合わせのところで述べましたので、リンクで飛んでください。

文学では、漢詩集と和歌集が編纂されます。

751年、現存最古の漢詩集である『懐風藻』(かいふうそう)が成立します。
当時、漢詩文は貴族・官人の教養であったので、
『懐風藻』には大友皇子・大津皇子・長屋王など、名だたる有名人の作品が残されています。

このほか、すぐれた漢詩文の作者として、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)や淡海三船(おうみのみふね)の名前が伝わっています。
両者ともに『懐風藻』の編者ではないか?という説がありますが、定かではありません。
なお石上宅嗣は、日本最初の公開図書館である芸亭(うんてい、「芸」の字くさかんむりは「十 十」と離れて書きます)をひらいたことでも知られます。

また、770年ごろには『万葉集』(まんようしゅう)という有名な和歌集が成立します。
宮廷の歌人や貴族の和歌だけでなく、東歌(あずまうた)や防人歌(さきもりうた)といった東国の民衆たちがよんだ作品も収録されています。
このころはまだ平仮名も片仮名も存在しませんので、すべて漢字で書かれています。
漢字の音・訓を当て字にして日本語を表記した「万葉仮名」(まんようがな)です。

代表的な歌人は、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)や山上憶良・大伴家持(おおとものやかもち)などです。
山上憶良の「貧窮問答歌」も『万葉集』に収録されているんでしたね!

『懐風藻』は漢詩、『万葉集』は和歌、しっかり区別しておきましょう。

長くなりました。
それでは、最後に解答を載せておきます。

奈良6解答.jpg



次回は、天平文化の続き、建築物や仏像などを取り上げます。

画像出典
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0071894
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0085864
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