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1156年 保元の乱が起こる [年号のゴロ合わせ]

今日は、保元元年(ほうげんがんねん)、西暦1156年に起きた
保元の乱(ほうげんのらん)を取り上げます。

保元の乱とは、
兄・崇徳上皇(すとくじょうこう)と、弟・後白河天皇(ごしらかわてんのう)の対立に、
兄・藤原忠通(ふじわらのただみち)と、弟・藤原頼長(ふじわらのよりなが)の対立が重なり、
それぞれに武士である平氏・源氏が加わって大規模な武力衝突に発展してしまった、
壮絶な兄弟ゲンカです。

最初に、対立関係を表にまとめておきましょう。

1156-1.jpg

う~ん、登場人物が多くてすでにややこしいですね…
なので、今回は天皇家の対立に焦点をしぼって、保元の乱を見ることにしましょう。
崇徳上皇と後白河天皇、この2人の対立の原点は、
どうやら彼らのお父さんである鳥羽天皇(とばてんのう)にあるようです。



鳥羽天皇は、1107年にお父さんである堀河天皇(ほりかわてんのう)の死去にともない即位します。
このときわずか5歳。
よって、おじいちゃんである白河上皇(しらかわじょうこう)が院政(いんせい)をおこないます。

それから16年後、鳥羽天皇は息子に天皇の位を譲ります。
即位した崇徳天皇(すとくてんのう)は、これまた5歳。
もちろん院政が敷かれます。
院政をおこなったのは、崇徳天皇のお父さんである鳥羽上皇(とばじょうこう)ではなく、
白河法皇(しらかわほうおう、1096年ごろ出家して法皇となる)です。
崇徳天皇にとっては、ひいおじいちゃんにあたる人物です。

こんな風に白河法皇がずぅぅーーーっと君臨し続けるので、
鳥羽上皇は、天皇としても、上皇としても、まったく権力を握れない日々を送ります。
ちょっとじいさん!いい加減 引退してくれよ!!って感じですよね。

といっても、じいさんの時代がいつまでも続くわけではありません。
1129年、白河法皇は77歳でこの世を去るのです。

さぁ!
ついに鳥羽上皇が権力を握る日がやって来ましたよ!!

てなわけで、鳥羽上皇はさっそく院政を敷き、白河法皇の側近たちを次々と排除します。
そして、1141年には崇徳天皇に譲位を迫り、息子の近衛天皇(このえてんのう)を即位させます。
近衛天皇は、このとき3歳。
院政をおこなうのは、もちろん近衛天皇のお父さんである鳥羽上皇です。

ところが…
1155年、近衛天皇は17歳の若さでこの世を去ってしまいます…

次に即位したのは、近衛天皇のお兄ちゃんにあたる後白河天皇です。
鳥羽法皇(とばほうおう、1142年に出家して法皇となる)としては、
孫(後白河天皇の息子、のちの二条天皇(にじょうてんのう))を天皇にしたかったのですが、
さすがに天皇になったことのないお父さんを差し置いて即位しちゃいかんだろ…ということで、
急遽、即位することになったのです。
そんな後白河天皇は、このとき29歳。
かなりイイトシなのですが、鳥羽法皇は院政を継続します。

うーん、なんだか人間関係がややこしくなってきたので、
ここでちょっと系図を確認するとしましょう。

1156-1-2.jpg

崇徳上皇・近衛天皇・後白河天皇は、みーんな鳥羽法皇の息子とゆーことですよ。
いや~、ややこしいですね~…

ここまでの流れは理解できましたか?
では、続きを見ていきましょう。

*   *   *

1156年7月2日、鳥羽法皇が亡くなります。

この直前、息子である崇徳上皇は、鳥羽法皇のお見舞いに出かけます。
ところが、お父さんに面会を拒否されてしまうのです!
しかも、「私が死んでも崇徳上皇に遺体は見せるな」という遺言つき!!

なにそれ!
ちょっとヒドくないですか!!

実は、鳥羽法皇と崇徳上皇の関係は、かなり前からギスギスしていたのです。
ここで、崇徳上皇が天皇の位を譲ったときに話を戻してみましょう。

*   *   *

崇徳天皇は、白河法皇の死後、鳥羽上皇から譲位を迫られ、
かわって近衛天皇が即位したんでしたよね。

近衛天皇は崇徳上皇の弟ですが、崇徳上皇の奥さんの養子になっていたので、
ながらく「皇太子」のポジションにありました。
ところが実際、近衛天皇が即位したときには、
「皇太弟」のポジションから天皇になった、という風に変わっていたのです!
崇徳上皇の弟、つまり鳥羽上皇の息子として即位した、ということです。
結果、院政は天皇のお父さんである鳥羽上皇がおこなうこととなり、
天皇のお兄ちゃんである崇徳上皇は、権力を手にすることはできませんでした。

その後、近衛天皇は若くして亡くなったのでしたね。
次の天皇として有力視されたのは、崇徳上皇の息子でした。
もし彼が即位すれば、崇徳上皇は天皇のお父さんなので、院政をおこなえる可能性がでてきます。

ところが鳥羽法皇は、崇徳上皇の弟である後白河天皇を即位させたのでしたね。
さらに、後白河天皇の息子(のちの二条天皇)を皇太子にたて、
次の天皇とすることも決定しました。

鳥羽法皇によって、
崇徳上皇の息子が天皇になること、
そして崇徳上皇が院政をおこなう可能性は完全に絶たれてしまったのです。
そこに死の間際の面会拒否とあの遺言ですよ。

いやぁ~…崇徳上皇マジでかわいそすぎます…
鳥羽法皇は、崇徳上皇のナニが気にいらないとゆーのでしょう!

1156-3.jpg

ここで1つ、なんとも怪しいウワサ話を紹介しましょう…
(以降、便宜上、「崇徳上皇」で名称を統一します)

崇徳上皇のお母さんは、
待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし、または、たいけんもんいんたまこ)といいます。
白河法皇に育てられた女性で、1117年に鳥羽天皇と結婚し、7人の子を産みます。
崇徳上皇は、その最初の子どもです。

ところが。
ところがですよ。

崇徳上皇のほんとうのお父さんは白河法皇である。

なんてゆーウワサがたつのです!
鳥羽天皇からすると、奥さんと、自分のおじいちゃんとの間にできた子です。
うぅぅぅーん、ちょっと相当キモいですよね…

1156-4.jpg

そんな息子に譲位した鳥羽上皇は、
やがて美福門院得子(びふくもんいんなりこ)という別の奥さんを愛するようになります。
そして、彼女が産んだカワイイ我が子を即位させるため、崇徳天皇に譲位を迫ったというわけです。

このウワサは、鎌倉時代に成立した『古事談(こじだん)』という本にしか載っていないので、
真偽のほどは分かりませんし、当時どれだけ広まったのかも分かりません。
でも、鳥羽法皇の崇徳上皇に対する態度を見ると、
「ウワサは本当なのかも…」と思ってしまいますね…

*   *   *

鳥羽法皇が亡くなったところに話を戻しましょう。

鳥羽法皇が亡くなり、なんかもういろいろショックを受けている崇徳上皇に、
さらなる追い打ちがかかります。

崇徳上皇と藤原頼長が手を結んで反乱を起こそうとしている。

というウワサが流れるのです。

藤原頼長とは、お兄ちゃんである関白の藤原忠通と対立している左大臣です。
(この兄弟の対立については、平安時代(16)のまとめプリントで詳しく述べる予定です)
またウワサかぃ!と突っ込みたくなりますが、ウワサほど怖いものはありません…
これにより、藤原頼長は財産を没収されてしまうのです。
もはや謀反人(むほんにん)扱いです。

このままでは自分も危ないと悟った崇徳上皇は、自宅を脱出します。
藤原頼長はそんな崇徳上皇と合流し、
ここに平忠正(たいらのただまさ)、源為義(みなもとのためよし)・源為朝(みなもとのためとも)親子といった武士が加わります。

こうした崇徳上皇側の動きに、後白河天皇と藤原忠通もすかさず
平清盛(たいらのきよもり)や源義朝(みなもとのよしとも)などの武士を集めます。

そして1156年7月11日の未明、両勢力は激突するのです。
世にいう保元の乱です。

勝敗は、わずか数時間で決します。
勝利したのは、後白河天皇側です。

敗北した崇徳上皇は、投降のすえ讃岐国(さぬきのくに)に流罪となり、
平忠正と源為義は斬首、源為朝は伊豆国(いずのくに)に流罪となります。
なお、藤原頼長は戦いのさなかに命を落としています。

ちなみに、
天皇・上皇の流罪は、恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)以来(淳仁天皇が淡路島に流罪)、
死刑の執行は薬子の変(くすこのへん)以来(藤原仲成が処刑)のことです。

ここで、保元の乱についての史料を見ておきましょう。

保元元年(1156年)七月二日、〔1   〕院失セサセ給(たまひ)テ後、日本国ノ乱逆(〔2   〕のこと)ト云(いう)コトハヲコリテ後、ムサノ世ニナリニケルナリ
(出典:慈円(じえん)『〔3   〕』)


空欄にあてはまる語句は分かりましたか?
 1…鳥羽(鳥羽法皇の死去→保元の乱の勃発、この順序を押さえておけば答えられますね)
 2…保元の乱
 3…愚管抄(ぐかんしょう、鎌倉文化で紹介する歴史書)

この史料のなかで重要なのは、「ムサノ世」という言葉です。
中央政界における争いを、武士の力で解決した保元の乱は、
貴族の無力さと武士の実力を世に広め、武士が政界に進出するきっかけを与えました。
つまり日本は、保元の乱によって武士が政権をとる「武者の世」となったのです。

*   *   *

余談ではありますが、最後に崇徳上皇の讃岐国での様子を見ておきましょう…

ところで、讃岐国ってどこか分かりますか?
讃岐と言えば…
そう!うどんで有名ですよね!!さぬきうどん!!!
「それでも分からん!」という人は、飛鳥時代(11)を復習してください。

讃岐国に流罪となった崇徳上皇は、仏教を深く信仰するようになり、
たくさんの写経(しゃきょう、お経を書写すること)をおこないます。
そして、保元の乱で亡くなった人々の供養(くよう)と、自身の反省の証にしてほしい…と、
それらをまとめて朝廷に送ります。

ところが!
ところがですよ!!

後白河天皇は、「これ、呪い(のろい)が込められてるんちゃうの!」とキモがり、
ぜんぶまとめて崇徳上皇のもとに送り返すよう命じるのです!!!

ちょ!
後白河!!

あかん!
それは絶対にあかん!!

でもホントに送り返しちゃったんですよねー…

もちろん崇徳上皇は怒り狂います。
その怒りはすさまじく、舌を噛み切り、その血でもって
「大魔王になって、天皇を没落させ、民をこの国の王にしてやる」
というような内容を、送り返されてきたお経に書いたほどだったとか。

その後、崇徳上皇は讃岐国で生涯を閉じるのですが、
亡くなるまで髪の毛や爪を伸ばし続けて天狗になった、とか、
崇徳上皇の遺体をいれた棺(ひつぎ)から血があふれ出した、とか、
なんとも怖いウワサが残っています。
やがて崇徳上皇は、怨霊(おんりょう)として人々からおそれられるようになるのです。

崇徳上皇の魂が京都に戻るのは、明治時代の直前のことです。
明治天皇が即位する際、京都に神社を建てて崇徳上皇を祀(まつ)ったのです。
平安時代末期に天皇が武士に政権を奪われたのは、崇徳上皇の呪いによるものだ、
という考えが幕末期まで続いていたのでしょう…
大政奉還によって政権が天皇(朝廷)に返上されたタイミングで、
崇徳上皇はようやく京都に帰ることができたのです。

なお、崇徳上皇は讃岐国で2人の子どもに恵まれた、
というほっこりエピソードも残っています。
幸せな面もあったんだね…ホントに良かった……(涙)

長くなりました。
最後にゴロ合わせを載せておきましょう。

1156年.jpg

キレていい、キレていいよね、崇徳上皇…

すみっこにいるマッスルキャラが気になると思いますが(笑)、
こちらについては後日触れたいと思います。



次回は、平治の乱(へいじのらん)をゴロ合わせとともにお届けします。
更新が滞っていること、なにとぞご了承ください…

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1086年 院政を開始する [年号のゴロ合わせ]

前回は、延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)を取り上げました。
これを発令した後三条天皇(ごさんじょうてんのう)にかわって即位したのは、
息子の白河天皇(しらかわてんのう)です。

白河天皇は、お父さんにならって親政(しんせい)をおこないますが、
1086年、息子の堀河天皇(ほりかわてんのう)に位を譲り、
上皇(じょうこう)として院政(いんせい)を開始します。

白河上皇(しらかわじょうこう)は、なぜ院政を始めることにしたのでしょうか。



白河天皇は即位するとき、まだ子どもがいなかったため、
弟の実仁親王(さねひとしんのう)が皇太弟(こうたいてい)に立てられます。
実仁親王、このときわずか2歳です。
そんな幼い実仁親王を皇太弟に立てることを強く望んだのは、
2人のお父さんである後三条上皇(ごさんじょうじょうこう)です。

前回述べた通り、後三条上皇は、
藤原北家(ふじわらほっけ)、すなわち摂関家(せっかんけ)を外戚としない天皇でした。
ゆえに、摂関家に遠慮することなく、
延久の荘園整理令などの改革を強力に押し進めることができたのです。

しかし、白河天皇のお母さんは、藤原北家の出身です。
(藤原能信(ふじわらのよしのぶ)の養女である藤原茂子(ふじわらのもし、または、ふじわらのしげこ))

一方、実仁親王のお母さんは、藤原北家の出身ではありません。
(源基平(みなもとのもとひら)の娘である源基子(みなもとのきし、または、みなもとのもとこ))

後三条上皇は、摂関家と外戚関係にある白河天皇よりも、
自分と同じように、摂関家と外戚関係にない実仁親王の即位を願ったのです。

この願いは相当強かったようで、1073年に後三条上皇がこの世を去る際、
もし実仁親王にナニかがあった場合は、弟の輔仁親王(すけひとしんのう)を皇太弟にするように、
という遺言(ゆいごん)を残したほどです。

1086-1.jpg

その後、後三条上皇の心配は的中し、
1085年、実仁親王は15歳の若さでこの世を去ってしまいます…
ということで、後三条上皇の遺言どおり、輔仁親王が皇太弟になる…

のかと思いきや!!!

なんと翌1086年、白河天皇は息子を皇太子(こうたいし)に立て、
なんとなんと、その日のうちに息子に天皇の位を譲ってしまったのです!!
後三条上皇の遺言、ガン無視です!!!

こうして誕生したのが、堀河天皇なのです。

このとき堀河天皇はまだ8歳ということで、
お父さんである白河上皇が補佐にあたります。

そう、これが院政のはじまりです。

つまり院政とは、白河天皇が、弟ではなく、
自分の息子に天皇の位を譲りたかったがために始まった政治体制なのです。

しかし、ここで1つ疑問がわきませんか?
天皇が幼少のときは、摂政が補佐するんじゃないの??って。

ハイ、その通りです。
堀河天皇の即位に際して、ちゃんと摂政が置かれていて、
白河上皇はその摂政と協調関係を築きながら政務を執ったようです。

しかし、堀河天皇の成人後、22歳のワカゾーが関白に就任したこと、
さらに、堀河天皇の死後、その息子である鳥羽天皇(とばてんのう)が5歳で即位したことで、
白河法皇(しらかわほうおう、上皇が出家すると法皇になります)に権力が集中するようになり、
院政はどんどん強力な政治体制となっていったのです。

結果、白河上皇は、息子の堀河天皇、孫の鳥羽天皇、
そしてひ孫の崇徳天皇(すとくてんのう)の3代にわたって院政を敷くことになるのです。

1086-2.jpg

ちなみに上皇とは、譲位した天皇を指すんでしたね。
正式名称は太上天皇(だいじょうてんのう、または、だじょうてんのう)で、
平安時代中期ごろから上皇と省略して呼ばれるようになったようです。
また、上皇の住居を院(いん)と呼んだのですが、
それがいつの間にやら上皇自身を指す言葉にもなったようです。

というわけで、
上皇(院)による政治を院政と呼び、
その役所を院庁(いんのちょう)、院庁の職員を院司(いんし)と呼び、
院庁から下される命令文を院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)、
上皇の命令を受けて院司が下す命令文を院宣(いんぜん)と呼びます。

とにかく、なんでもかんでも「院」がつくので覚えやすいです(笑)

*   *   *

では最後に、白河上皇による院政を史料で見ておきましょう。

禅定法王(ぜんじょうほうおう、〔1   〕のこと)は、〔2   〕院崩後(ほうご、亡くなった後ということ)、天下の政をとること五十七年、在位十四年、位を避るの後四十三年。意に任せ、法に拘(こだわ)らず、除目(じもく)・叙位(じょい、いずれも官位の人事のこと)を行ひ給ふ。古来未(いま)だあらず。(中略)威(い)四海に満ち天下帰服(きふく)す、幼主三代(堀河・鳥羽・崇徳天皇の3代のこと)の政をとり、斎王(さいおう、伊勢神宮などに奉仕する皇女のこと)六人の親となる。桓武以来、絶えて例なし。聖明の君、長久の主と謂(い)ふべきなり。但し理非決断(りひけつだん、裁判をしっかりとおこなうこと)、賞罰分明(しようばつぶんめい、賞と罰をはっきりとおこなうこと)、愛悪掲焉(あいおけちえん、いつくしみと憎しみとが著しいこと)にして、貧富は顕然なり。男女の殊寵(しゅちょう、男女の近臣を優遇すること)多きにより、已(すで)に天下の品秩(ほんちつ)破るゝなり。
(出典:藤原宗忠(ふじわらのむねただ)『中右記(ちゅうゆうき)』)


空欄にあてはまる語句は分かりましたか?

 1…白河上皇
 2…後三条

大学入試で頻出する史料ではありません。
空欄にあてはまる語句と、これが白河上皇の院政について言及した史料であることさえ分かっておれば、
まぁ大丈夫!といったところです。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

1086年.jpg



次回は、保元の乱(ほうげんのらん)を見ていきます。

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1069年 延久の荘園整理令を出す [年号のゴロ合わせ]

私事ですが、先日第2子を出産しました。
ただでさえのろのろ更新のブログですが、さらに更新が滞るかもしれません…
申し訳ありませんが、何卒ご了承くださいませ。

*   *   *

今日は、1069年に後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が発令した、
延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)を、ゴロ合わせとともに紹介します。

まずは、後三条天皇の外戚(がいせき)が誰なのか、系図で確認してみましょう。

1069-1.jpg

外戚とは、お母さん側のおじいちゃんのことでしたよね。
後三条天皇のお母さんは禎子内親王(ていしないしんのう)で、
彼女のお父さんは三条天皇ですので、
後三条天皇の外戚は三条天皇となります。

そうなんです!
後三条天皇の外戚は、藤原北家(ふじわらほっけ)ではないのです!!
摂関家(せっかんけ)と外戚関係にないのです!!!

といっても、禎子内親王のお母さんは、
藤原道長(ふじわらのみちなが)の娘である藤原妍子(ふじわらのけんし、または、ふじわらのきよこ)です。
後三条天皇は、摂関家と血のつながりがあるのです。
しかし、外戚関係ではありませんし、
なにより禎子内親王は、藤原北家とあまり仲がよろしくなかったようです。

摂関家を外戚としない天皇の即位は、
宇多天皇以来、なんと約170年ぶりのことです。
後三条天皇は、一体どのような経緯で即位することになったのでしょうか。

*   *   *

後三条天皇の前の天皇は、後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)です。
後冷泉天皇が即位するとき、まだ子どもがいなかったので、
弟である尊仁親王(たかひとしんのう)が皇太弟(こうたいてい)と定められます。

その後、藤原道長の息子である藤原頼通(ふじわらのよりみち)は、
一人娘の藤原寛子(ふじわらのかんし、または、ふじわらのひろこ)を後冷泉天皇と結婚させます。

2人の間に子どもが生まれれば、すぐさま尊仁親王を皇太弟の座から引きずりおろし、
その子ども(藤原頼通にとっては孫)を皇太子、そしてゆくゆくは天皇とし、
自らは天皇の外戚として絶大な権力を手に入れる…という計画のための政略結婚です。
そして、この計画が実現するものだと信じて疑わない藤原頼通は、
邪魔でしかない皇太弟を冷遇します。

ところが…

後冷泉天皇は、藤原寛子との間に子どもをもうけることなくこの世を去ってしまうのです。
父である藤原道長のように、藤原頼通は天皇と外戚関係を築くことができなかったのです。

結果、皇太弟の尊仁親王が即位します。
そう、藤原頼通に冷遇されてきた彼こそが、後三条天皇なのです!

こうして摂関家を外戚としない後三条天皇が誕生し、
彼は摂関家に遠慮することなく(冷遇されてきたんだしね!)、さまざまな改革に乗り出すのです。

藤原北家の栄華は、ここに終わりをつげることになるのです。



後三条天皇は、さっそく大江匡房(おおえのまさふさ)などの学者を登用し、
親政(しんせい)を開始します。
そして1069年、延久元年(えんきゅうがんねん)に、荘園整理令を発令するのです。
これを、延久の荘園整理令と呼びます。

まずは、史料で見てみましょう。

コノ〔1   〕位(くらい)ノ御時(おんとき)、(中略)〔2   〕ノ〔3   〕(〔4   〕のこと)トテハジメテヲカレタリケルハ、諸国七道ノ所領ノ宣旨(せんじ、官の命令を伝える文書のこと)・官符(かんぷ、太政官からくだす文書のこと)モナクテ公田(くでん)ヲカスムル(横領すること)事、一天四海(全世界のこと)ノ巨害(こがい)ナリトキコシメシツメテアリケルハ、スナハチ宇治殿(うじどの、〔5   〕のこと)ノ時、一ノ所(いちのところ、摂関家のこと)ノ御領(ごりょう、摂関家領のこと)御領トノミ云(いい)テ、庄園諸国ニミチテ〔6   〕ノツトメタヘガタシナド云(いう)ヲ、キコシメシモチタリケル(聞き入れ、用いられたということ)ニコソ。(以下略)
(出典:慈円(じえん)『愚管抄(ぐかんしょう)』)


空欄にあてはまる語句は分かりましたか?

 1…後三条
 2…延久
 3…記録所(きろくしょ)
 4…記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)
 5…藤原頼通(宇治に平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)を建てたため、宇治殿と呼ばれる)
 6…受領(ずりょう)

大学入試では、この空欄にあてはまる語句を問うパターンと、
「宇治殿」から藤原頼通について問うパターンが非常に多いです。
しっかりと押さえておきましょう!

この史料を簡単に訳すと、

後三条天皇の時代、はじめて延久の記録所が設置されたのは、
全国の荘園が、宣旨や官符で認められたわけでもないのに公田を横領しているのは大いなる害であること、
また、藤原頼通の時に、「摂関家領だ!摂関家領だ!!」と言って諸国に荘園があふれ、
受領の任務が果たせないなどという不満の声があがっていることを、
後三条天皇が聞き入れられたからであろう。

となります。

つまり後三条天皇は、荘園の増加が公領(こうりょう、国衙領(こくがりょう)のこと)を圧迫していると考え、
延久の荘園整理令を発令したのです。

902年に発令された延喜の荘園整理令(えんぎのしょうえんせいりれい)をはじめ、
これまでも何度か荘園整理令は出されています。
しかし、いずれも券契(けんけい)と呼ばれる荘園の証拠書類の審査を国司に任せていたため、
不徹底に終わっています。

そこで後三条天皇は、中央にある太政官(だじょうかん、または、だいじょうかん)に
記録荘園券契所(記録所)を設置し、
ここで、荘園の所有者が提出する券契と国司の報告とをあわせて厳密に審査し、
年代の新しいもの(1045年以降につくられた新しい荘園、なぜ1045年なのかは平安時代(10)のプリント参照)や、
書類不備のものなど、
基準にあわない荘園を停止したのです。

1069-2.jpg

しかも、摂関家や大寺社の荘園も例外とせず、
たとえば京都にある石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)という大きな神社の荘園は、
34か所のうち13か所の権利が停止されたと伝わっています。

延久の荘園整理令はかなりの成果をあげ、
これにより、
・ 貴族や寺社の支配する荘園
・ 国司の支配する公領(国衙領)
両者の区別が明確になります。

そして、荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)が成立することになるのですが、
これはまたのちのち、まとめプリントでお話ししたいと思います。

*   *   *

後三条天皇は、このほか1072年に宣旨枡(せんじます)を制定し、
枡の大きさを統一しています。
これは、太閤検地(たいこうけんち)で京枡(きょうます)という新たなものがつくられるまで、
公定の枡として使用されることになります。

といっても、荘園ではいろんな枡が使われていたようですが…

それでは、今日のゴロ合わせ☆

1069年.jpg

永久(えいきゅう)に…というゴロ合わせですが、
延久(えんきゅう)の荘園整理令ですのでね!
間違えて覚えないでくださいね!!



次回は、院政のゴロ合わせを見ていきます。

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平安時代(13) [まとめプリント]

武士のおこりの2回目は、平安時代に地方で起きた反乱を取り上げます。

前回、武家の棟梁(ぶけのとうりょう)として、
桓武平氏(かんむへいし)と清和源氏(せいわげんじ)が登場しました。
まずは、彼らが一体ナニモノなのか…というところからお話ししましょう。

*   *   *

平安時代、皇位継承が確実におこなわれるよう、
子どもをたくさんもうける天皇が少なくありませんでした。
桓武天皇(かんむてんのう)は30人ほど、
嵯峨天皇(さがてんのう)なんて50人ほど子どもがいたようです。

天皇の子どもは、もちろん天皇の一族、
すなわち皇族(こうぞく)です。

皇族であるその子どもたちが、それぞれ子どもをもうけるとなると…
そう、皇族はどんどん増えてゆくのです。

律令には、皇族に一定の給料を与えることなどが定められているので、
皇族が増えすぎると、国家財政を圧迫することにつながってしまいます。
そこで、皇位継承の可能性がなくなった皇族に、
源(みなもと)や平(たいら)などの姓を与えて皇族でなくなってもらう、
ということがおこなわれるようになります(皇族は姓をもちません)。

天皇から姓を賜(たまわ)って、臣下(しんか)の籍(せき)に降りることから、
これを臣籍降下(しんせきこうか)といいます。
皇族でなくなった方が自由に出世できる、というメリットもあったようですが、
実際のところ、その子孫は没落し、地方で武士や豪族になる、というケースが多かったようです。

平安13-1.jpg
(描ききれないのでかなり省略しました。ホントは子どもや兄弟、奥さんナドナドがもっとたくさんいます!)

では、具体的な例を見てみましょう。

889年、桓武天皇のひ孫(孫という説もアリ)である高望王(たかもちおう)は、
平の姓を賜って、平高望(たいらのたかもち)となります( ↑ 上のイラスト参照)。
平高望は、やがて上総(かずさ)の国司に任命され、子どもたちを連れて任国へ赴きます。
そして、国司の任期を過ぎても平安京へは戻らず、
関東地方の開墾を進めて勢力を拡大し、武士団(ぶしだん)を形成するようになるのです。
この平高望の子孫を、桓武平氏と呼びます。

また、清和天皇(せいわてんのう)の孫にあたる人物が、
源の姓を賜って(いつ臣籍降下をしたのか不明)、源経基(みなもとのつねもと)となります。
この源経基の子孫を、清和源氏と呼びます。

前回も述べた通り、彼らは天皇の血をひいているということからカリスマ性を高め、
やがて大武士団(だいぶしだん)を率いる武家の棟梁となってゆくのです。



9世紀末、朝廷は滝口の武者(たきぐちのむしゃ)、または、滝口の武士(たきぐちのぶし)を設置し、
武芸を得意とする者に、宮中の警備を任せるようになります。

さらに地方武士たちは、日本各地で起こるさまざまな反乱を鎮圧することで、
自分たちの実力を、中央の人々に認めさせてゆくのです。

平安13.jpg

では、地方で起こる反乱を、桓武平氏・清和源氏に整理しながら見ていきましょう。
旧国名が分からない人は、飛鳥時代(11)のプリントを参考にしてくださいね。

*   *   *

最初は、関東地方で起こる平将門の乱(たいらのまさかどのらん)です。

平将門(たいらのまさかど)は、父である平良将(たいらのよしまさ)の死後、
おじさんにあたる平国香(たいらのくにか)と対立し、これに勝利します。
その後、下総(しもうさ)を根拠地にして一族らと争いを繰り返すうち、
939年には常陸(ひたち)・下野(しもつけ)・上野(こうずけ)の国府(こくふ)を攻略し、
自ら新皇(しんのう)と名乗るようになります。
東国一帯(東国とは、おもに関東地方を指します)を占領するにいたった新皇・平将門ですが、
940年、平国香の息子である平貞盛(たいらのさだもり)と、
下野国の押領使(おうりょうし)である藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らによって討たれます。
● 平将門の乱(939年~) … 〔負〕平将門 × 〔勝〕平貞盛・藤原秀郷

これとほぼ同じタイミングで起こるのが、藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)です。
939年、瀬戸内地方で発生します。

藤原純友(ふじわらのすみとも)は、伊予(いよ)の国司として、
瀬戸内海で暴れまわる海賊たちの討伐にあたっていました。
しかし、国司の任期を過ぎても都には戻らず、逆に海賊たちのリーダーとなり、
日振島(ひぶりしま)を根拠地にして、朝廷と対立するようになります。
伊予の国府を攻略し、さらには大宰府(だざいふ)をも占領する藤原純友ですが、
清和源氏の祖である源経基と、
追捕使(ついぶし)である小野好古(おののよしふる)らに敗北し、反乱は鎮圧されます。
● 藤原純友の乱(939年~) … 〔負〕藤原純友 × 〔勝〕源経基・小野好古

ほぼ同時期に関東地方と瀬戸内地方で起こった平将門の乱と藤原純友の乱。
両者をまとめて、承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)といいます。

これらを鎮圧したのは、朝廷の軍隊ではなく、押領使や追捕使に任命された地方武士たちです。
つまり、承平・天慶の乱は、朝廷の軍事力の低下と、地方武士の実力を世に知らしめたのです。
このあと、地方武士の組織はいっそう強化されることとなります。

*   *   *

969年、朝廷では藤原北家(ふじわらほっけ)による最後の他氏排斥事件が起こります。
地方で起こる反乱ではありませんが、武士がからんでいるので、ちょっとここでお話ししておきます。

ではその事件、なんという名称だったか覚えていますか?
左大臣の源高明(みなもとのたかあきら)が左遷された、安和の変(あんなのへん)です。

源高明がなぜ左遷されることになったのかというと、
娘の旦那さんである為平親王(ためひらしんのう)を即位させようとしているのではないか…
というような内容が、朝廷に密告されたからでしたね。
その密告をしたのは、源経基の息子である源満仲(みなもとのみつなか)です。
源満仲は、同じ源氏である源高明をチクることで藤原氏に接近し、
源氏の勢力を伸ばすことに成功したのです。

ちなみに源満仲は、
摂津(せっつ)にある多田荘(ただのしょう、現在の兵庫県川西市周辺)という荘園に土着した、
武家の棟梁です。
荘園(名(みょう))の名前から、多田(ただ)という名字を名乗ったため、
多田満仲(ただみつなか、または、ただまんじゅう…まんじゅうって!)とも呼び、
彼の子孫を多田源氏(ただげんじ、長男の源頼光(みなもとのよりみつ)が武家の棟梁を継承)と呼びます。

姓と名前の間は「の」を入れて読み(源満仲の読み方は、みなもとのみつなか)、
名字と名前の間は「の」を入れて読みません(多田満仲の読み方は、ただみつなか)。
気をつけてくださいね!
姓と名字の違いについては、飛鳥時代(5)を参考にしてください。

*   *   *

1028年、房総半島で平忠常の乱(たいらのただつねのらん)が起こります。

平将門の乱から100年が経とうとしているこのころの関東地方では、
平貞盛の子孫をはじめ、平氏が大きな力をふるっています。
平忠常(たいらのただつね)は、平高望のひ孫にあたる人物で、
房総半島に広大な所領をもっていたようです。

1028年、平忠常は安房(あわ)の国司を焼き殺すという事件を起こします。
原因は不明なのですが、これまで平忠常は国司の命令に従わず、納税も拒否していたというので、
そういったモメゴトが高じて起きたことなのでしょう…

平忠常の勢いはとまらず、ついには房総半島を占領するに至ります。
朝廷はこれを討伐すべく軍隊を派遣するのですが、
鎮圧できないまま3年もの月日が流れてしまいます…

そこで、源満仲の息子である源頼信(みなもとのよりのぶ)に、
平忠常の乱を鎮圧するよう命令がくだります。
すると1031年、平忠常は源頼信にすんなり降伏するのです。

えっ…なんで…??って感じですよね。

どうやら平忠常は、昔、源頼信と主従関係にあったようなのです。

長期間にわたる戦闘で疲れ果てていた平忠常は、
かつての主君である源頼信が自分を討伐しに来たことを知り、
一度も戦うことなく屈服し、都に移送される途中で病死してしまうのです。

なんともあっけない終わり方をする平忠常の乱ですが、
これによって東国における平氏の力は衰退し、かわって源氏が東国に進出することになるのです。
● 平忠常の乱(1028年~) … 〔負〕平忠常 × 〔勝〕源頼信

ちなみに、源頼信は河内国を本拠地としたことから、彼の子孫を河内源氏(かわちげんじ)と呼びます。

*   *   *

1051年、前九年合戦(ぜんくねんかっせん)、または、前九年の役(ぜんくねんのえき)が、
東北地方で起こります。

この年、陸奥(むつ)の豪族である安倍頼時(あべのよりとき)が国司と対立し、
かわって、源頼信の息子である源頼義(みなもとのよりよし)が、国司(陸奥守(むつのかみ))に任命されます。
両者はしばらく良好な関係にあったのですが、あるとき激突し、
源頼義は、息子の源義家(みなもとのよしいえ)とともに、安倍氏と戦うこととなります。
ところがねー、安倍氏めっちゃ強いんですよー…
そこで源頼義は、出羽(でわ)の豪族である清原氏(きよはらし)に協力をあおぎ、
ようやく1062年、安倍氏を滅ぼすことに成功します。
このとき源頼義は、東国の武士を率いて戦ったため、源氏が東国における勢力を確立することになるのです。
● 前九年合戦(1051年~) … 〔負〕安倍氏 × 〔勝〕源頼義・源義家 + 清原氏

*   *   *

1083年、後三年合戦(ごさんねんかっせん)、または、後三年の役(ごさんねんのえき)が、
東北地方で起こります。

安倍氏の滅亡後、陸奥・出羽の両国で大きな勢力を得るようになった清原氏の内部で、
相続争いが発生します。
父親である源頼義にかわって陸奥守に就任していた源義家は、これに介入し、
清原清衡(きよはらのきよひら)を助けて内紛を平定します。
このとき源義家は、東国の武士団との主従関係を強め、
武家の棟梁としての地位を固めることになるのです。
● 後三年合戦(1083年~) … 〔負〕清原氏 × 〔勝〕清原清衡(藤原清衡)・源義家

ちなみにこのあと、清原清衡は実の父親の姓である藤原を名乗って藤原清衡(ふじわらのきよひら)となり、
奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)の初代として、東北地方を支配してゆくことになります。

*   *   *

以上の流れ、つかめましたか?
最後に、解答を載せておきましょう。

平安13解答.jpg



プリントには、源義朝(みなもとのよしとも)や平清盛(たいらのきよもり)といった名前が登場しましたね…
いよいよ源平の時代です!

が!
まとめプリントはしばらくお休みして、次回から久々にゴロ合わせを見ていきます。

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平安時代(12) [まとめプリント]

今日から2回にわたって、武士(ぶし)を取り上げます。

武士というと、チョンマゲでカタナを持っている姿を思い浮かべませんか?
それはズバリ、江戸時代の武士です。
時代劇の舞台はほとんどが江戸時代なので、
どうしてもそのイメージが強くなってしまいますよね。
(え?時代劇、観ないですか…??)

今から見ていくのは、武士のおこりです。
まだまだ江戸時代の武士みたいなスタイルではありません。
では、はじまりのころの武士とは、一体どんな様子だったのでしょうか。
一緒に見ていきましょう!

平安12.jpg

まずはプリントの左側、①地方政治の変質と武士 です。

前々回前回と、2回にわたって地方政治の変質を取り上げました。
このことは、武士のおこりと密接な関係があるので、簡単におさらいしておきましょう。

 浮浪・逃亡・偽籍などの横行により戸籍・計帳制度が崩壊
    ↓
 政府、財政難に陥る
    ↓
 10世紀、政府は国司に税の徴収を請け負わせ、その見返りとして任国の統治を国司に一任
    ↓
 国司はオイシイ職業となる
    ↓
 成功・重任、さらには遙任が繰り返され、ガメツイ受領まで出現

ザッとまぁこんな感じです。
この流れ、きちんと理解できていますか?

要するに、このころ地方の政治は乱れているのです。
かといって、地方の人々も、黙ってそれに耐えるばかりではありません。

国司のやりたいホーダイに抵抗するため、
自分の土地を維持し、広げるため、
治安を守るため、

地方に暮らす豪族や有力農民たちは、それぞれ武装するようになるのです。
これが、武士のおこりの1つのパターンです。

結果、各地で争いが発生します。

それを鎮圧するのが、押領使(おうりょうし)や追捕使(ついぶし)です。
盗賊を追いかけて逮捕したり、内乱を鎮圧することを任務とする令外官(りょうげのかん)で、
はじめは臨時で置かれたのですが、承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)以降、常置となります。
令外官については、平安時代(1)のプリントにまとめてありますので、参考にしてください。

押領使や追捕使に任命されるのは、武芸を身につけた中級貴族や下級貴族たちです。
(地方の有力者が任命されることも多々あります)
その多くは、源や平などの姓を賜って臣籍降下(しんせきこうか)をした賜姓貴族(しせいきぞく)です。

彼らのなかには、地方の争いを鎮圧したあと、そのまま現地にとどまり、
地元の武装有力農民などを配下に入れ、土地を開発し、所領を確保する者もいたようです。
これも、武士のおこりの1つのパターンです。

つまり、
地方豪族や有力農民が武装するパターン、
押領使や追捕使に任命された中級・下級貴族が土着するパターンなど、
さまざまな形で武士は誕生したのです。

ちなみに、武士とはもともと、武芸をもって朝廷に仕える武官(ぶかん)を意味する言葉です。
今回取り上げているような武士のことを、はじめは兵(つわもの)と呼んで区別していたようです。

*   *   *

やがて朝廷や貴族たちは、武士(兵のことですよ!)の活躍を耳にするようになり、
彼らを様々な場面で奉仕させるようになります。

中央の貴族のなかには、自身の警護にあたらせる侍(さむらい)として、武士を雇う者が現れます。
また地方では、武士たちを国侍(くにざむらい)として組織し、国衙(こくが)の軍事力としたり、
受領が、館侍(たちざむらい)という直属の武士として、彼らを組織するようになるのです。

なお、侍は、目上の人にお仕えする、という意味の動詞である「さぶらふ」が語源で、
もともとは主君の側近に仕える人全般を指したのですが、
やがて武士を意味する言葉として定着していったようです。

そして9世紀末、朝廷も武士を宮中の警備員として採用することとします。
滝口の武者(たきぐちのむしゃ)、または、滝口の武士(たきぐちのぶし)の設置です。

滝口とは、清涼殿(せいりょうでん、天皇の日常の住まいのこと)の北東にある場所の名称です。
彼らはここを詰め所にして警備にあたったため、滝口の武者と呼ばれるようになったのです。

ちなみに、1855年に再建された現在の京都御所(きょうとごしょ)でも、
滝口の場所を確認することができるんですよ!

P1010145.jpg

センスのない写真ですいません…分かりにくいですよね…
場所は、下の図の赤丸をつけた部分です。

kyoutogosyo_heimenzu.jpg
(財団法人菊葉文化協会発行『ポケットガイド1 京都御所』より作成)

現在、京都御所は、通年公開をおこなっています(特定の日は除く)。
平安京の内裏が再現された空間ですので、機会があればゼヒ一度訪れてみてください。
詳しくは、宮内庁参観案内をご覧下さい。

*   *   *

武士たちは、血縁関係などで結びつき、連合体を形成してゆきます。
これを、武士団(ぶしだん)といいます。
血のつながりのある親戚を中心に結成された戦闘集団、というところですね。
武士団の構造については、プリントの右側にまとめたのでのちほど。

やがて武士団は、カリスマ性のある人物のもとに集まるようになります。
これを、とくに大武士団(だいぶしだん)と呼んだりします。

では、大武士団のリーダーである、カリスマ性のある人物とは誰かというと、
桓武天皇の血をひく桓武平氏(かんむへいし)や
清和天皇の血をひく清和源氏(せいわげんじ)です。

なんてったって、天皇の血をひいてるんですよ?
めっちゃかっこいいじゃないですか!
カリスマ性むんむんじゃないですか!!

平安12-1.jpg

このような、大武士団の頂点に立つ人物を、武家の棟梁(ぶけのとうりょう)と呼びます。
また、武家の棟梁をはじめ、軍事をメインとする貴族は、
のちのち学者さんたちによって、軍事貴族(ぐんじきぞく)と呼ばれることになります。



次に、プリントの右側、②武士団の構造 を見ていきましょう。

・惣領(そうりょう)
 武士団の頂点に立つ人物
 一族のリーダーのことで、主人や首長などと表記されることもあります
   |
・家子(いえのこ)・家の子(いえのこ)
 原則、惣領と血のつながりのある家臣
 惣領のおじいちゃん・おばあちゃん、お父さん・お母さん、おじさん・おばさん、
 兄弟・子ども・孫などなど、いわば親戚を指します
   |
・郎党(ろうとう)・郎等(ろうとう)・郎従(ろうじゅう)
 惣領と血のつながりのない家臣
 田堵(たと)とか名主(みょうしゅ)などの出身者で、主従関係を結んで戦闘に参加します
   |
・下人(げにん)・所従(しょじゅう)
 武士身分ではない家臣
 馬に乗ることはできません

1人の惣領を頂点に、家臣たちが組織されているのが分かりますね。

*   *   *

では、③大武士団の構造 を見てみましょう。

②で見た武士団が、1人の惣領のもとに結集している様子が見てとれますね。
このような武士団の集まりを大武士団といい、
大武士団のリーダーを武家の棟梁と呼ぶわけです。

最後に、プリントに載せた「粉河寺縁起絵巻」(こかわでらえんぎえまき)の一部分を見てください。
真ん中には馬に乗った男性が、そしてそのまわりには3人の男性が描かれているのが分かりますね。
馬に乗れるのは、惣領・家子・郎党なので、真ん中に描かれている男性はそのいずれかだと考えられます。
そして、まわりにいる3人の男性は、馬には乗っていませんよね。
つまり、下人・所従クラスだと考えられます。

では、最後に解答を載せておきましょう。

平安12解答.jpg



次回は、地方で起こる様々な反乱を、
桓武平氏・清和源氏に分けてまとめてゆきます。

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画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%89%E6%B2%B3%E5%AF%BA%E7%B8%81%E8%B5%B7%E7%B5%B5%E5%B7%BB
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平安時代(11) [まとめプリント]

前回に引き続き、ややこしい荘園制を見ていきますよ-!
頑張りましょう!!

平安11.jpg

まずはプリントの左側、①荘園の歴史です。
前回の内容と重複する部分がたくさんあるので、復習も兼ねて進めていきましょうね。

8~9世紀ごろの政府の課題は、人口増加による口分田不足の解消と、税の増収です。
そこで、
722年の百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうぶかいこんけいかく)、
723年の三世一身法(さんぜいっしんのほう)を経て、
743年に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を発令します。
これによって公地公民の原則は崩壊し、人々は自分の土地を持つことができるようになります。

すると、力のある者、たとえば有力貴族や大寺社は、
周辺の班田農民(口分田を耕して租を納める、戸籍に登録された農民のこと)や、
口分田を捨てて浮浪(ふろう)している農民などを使ってどんどん開墾を進め、
自分の土地を広げてゆきます。

こうして生まれるのが、初期荘園(しょきしょうえん)です。
自分で開墾した土地なので、墾田地系荘園(こんでんちけいしょうえん)ともいいます。

初期荘園は、基本的には租が課せられる輸租田(ゆそでん)です。
有力貴族や大寺社は、自分たちの土地にかかる租を国衙におさめ、
残ったぶんを自らの収入としたのです。

一方、農民のなかにも豊かな者が現れるようになります。
こちらも浮浪する貧しい農民などを労働力として取り込み、どんどん力をつけてゆきます。
このような有力農民を、田堵(たと)といいます。
前回も登場しましたね!
覚えていますか?

有力貴族や大寺社、そして田堵が、それぞれ初期荘園を拡大するための労働力として、
浮浪する農民を使っていることからも分かるように、
このころ各地では、浮浪・逃亡(とうぼう)・偽籍(ぎせき)が横行しています。
結果、政府は戸籍・計帳によって農民たちを管理できなくなり、財政難に陥ってしまうのです。

そこで、政府は直営方式を採用し、
823年、大宰府管内に公営田(くえいでん)を、
879年、畿内に官田(かんでん)、または元慶官田(がんぎょうかんでん)を設置します。

ちなみにこのころ、天皇は勅旨田(ちょくしでん)、
院宮王臣家(いんぐうおうしんけ)は賜田(しでん)という土地を集積しています。

このあたりについては、平安時代(2)で詳しく書いたので、復習しておいてくださいね!

*   *   *

とはいえ、公営田や官田といった直営田(ちょくえいでん)を設置するだけで、
財政難が克服できるわけではありません。

902年には、醍醐天皇(だいごてんのう)が
延喜の荘園整理令(えんぎのしょうえんせいりれい)を出しますが、もはや手遅れです。

10世紀、政府はついに、税制の大転換に踏み切ります。
従来の人頭税(じんとうぜい)をやめて、
官物(かんもつ)・臨時雑役(りんじぞうやく)という地税を徴収することにしたのです。

この徴収は、これまでの郡司にかわって、国司が請け負うことになります。
徴税って、なかなか大変な作業なんですよね~…
そこで政府は、その見返りとして、国司に任国の統治を一任することにします。
税を徴収して、ちゃんと政府に納めてくれるなら、あとは好きにしてイイヨ!ということです。
結果、国司はオイシイ職業となり、成功(じょうごう)・重任(ちょうにん)が繰り返され、
受領(ずりょう)というガメツイ国司まで現れるようになるのです。

先ほども述べましたが、徴税はホントに大変です。
そこで国司は、有力農民である田堵を利用します。
新しい徴税単位である名(みょう)の耕作を田堵に任せ、税の納入を請け負わせるのです。
このように、名の経営を請け負う田堵を、とくに負名(ふみょう)と呼びます。
田堵(負名)のなかには、国司と手を結んで大規模な経営をおこなう、
大名田堵(だいみょうたと)と呼ばれる者も現れます。

*   *   *

土地の開発をどんどん進める大名田堵は、
やがて開発領主(かいはつりょうしゅ、または、かいほつりょうしゅ)と呼ばれるまでに成長します。

ややこしいですね…
田堵→負名→大名田堵→開発領主
という感じで成長していくんだと理解してください。

さらに、地元でブイブイいわす開発領主の多くは在庁官人(ざいちょうかんじん)となり、
国司不在の国衙、いわゆる留守所(るすどころ)の行政を担うようにもなるのです。

でもねー、開発領主なんて呼ばれちゃうくらい土地を広げてはみたものの、
めっっっっっちゃ税をとられるんですよ!

そこで開発領主たちは考えます。
なんとか税を逃れる方法はないかなぁ~…って。

するとね!
なんだかイイモノを持ってる権力者がいることを知るのです!!

そのイイモノとはズバリ!
不輸の権(ふゆのけん)・不入の権(ふにゅうのけん)という特権です!!

平安11-2.jpg

まず、不輸の権とは、税を免除される権利です。

ナニソレ!
めっちゃ羨ましくないですか?
みんなも「消費税を免除される権利」なんてあったら、欲しいでしょう!!
ないけどね(笑)

不輸の権が認められた荘園には、2種類あります。
官省符荘(かんしょうふしょう)と国免荘(こくめんのしょう)です。

符荘とは、
太政符(だじょうかんぷ、または、だいじょうかんぷ)、もしくは民部符(みんぶしょうふ)で、
不輸の権を認められた荘園のことです。

符(ふ)とは、上からの命令です。
つまり不輸の権は、太政官もしくは民部省の命令によって認められるのです。

ちなみに、符の反対は、解(げ)ですよ。
なにそれ?という人は、988年のゴロ合わせをご覧下さい。

988-2.jpg

国免荘とは、国司によって不輸の権を認められた荘園のことです。
ただし、これは国司が個人的に認めるものなので、
国司が入れ替わったりすると、無効になってしまう場合があったようです。
いやぁ~、それはモメるでしょうね…

次に、不入の権とは、国司の使者の立ち入りを認めない、という権利です。

国司は、国内の耕作状況を調査して、課税量を決定するため、
検田使(けんでんし)という使者を各地に派遣します。
しかし、不入の権を認められた荘園には、検田使は立ち入れないのです。

こうなると、荘園のなかで何がおこなわれ、どれだけ収穫があるのか、
国司はまったく把握できないわけです…
荘園領主としては好きホーダイしますよね、そりゃ…

*   *   *

というわけで開発領主たちは、こんな魅力的な特権をもつ権力者たちに土地を寄進し、
課税を免れようとするのです。

「えー!そんなことしたら自分の土地じゃなくなっちゃうじゃん!!」って思いますよね。
そうなんです、その土地は、寄進した権力者のものになってしまいます。

でもね、権力者はたいてい中央に家があるんですよ。
それなのに、色んなところにある土地を寄進されても、
わざわざ現地に行って管理なんてできないんですよ。

なので、土地を寄進してくれた開発領主を荘官(しょうかん)に任命し、
いままで通り、管理を任せるのです。

平安11-1.jpg

つまり、寄進によって土地の名義が権力者にかわっただけで、
土地の管理はこれまで通り開発領主がおこなう、というわけです。
あったまいいですねー!

これを寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)といいます。
寄進地系荘園は、11世紀なかばにはどんどんと広がり、公領を圧迫してゆきます。

そこで、1069年に延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)が発令されるのですが、
それはまたのちのお話。



プリントの右側にうつりましょう。
②寄進地系荘園の発達、です。

開発領主は課税を逃れるため、貴族や寺社などの有力者に土地を寄進するんでしたね。
寄進を受けた権力者は領家(りょうけ)と呼ばれ、
開発領主を下司(げし)・公文(くもん)などの荘官、つまり荘園の管理人に任命します。

領家のなかには、この寄進された土地を、
さらなる権力者、たとえば皇族・摂関家・大寺社など、に寄進をすることがあります。
領家から寄進を受けた超権力者を、本家(ほんけ)と呼びます。

領家と本家のうち、荘園の実質的支配権をもつ方を、本所(ほんじょ)と呼びます。
本所は、荘園における支配権を強めるため、
家臣を荘官として現地に派遣し、下司や公文を指揮させることがありました。
この上級荘官を、預所(あずかりどころ)と呼びます。
なかには、下司や公文のなかから預所に任命される、というパターンもあったようです。

これが、寄進地系荘園のモデルケースです。
分かりましたか?

ではここで、史料を使って、実際の例を見てみましょう。

鹿子木(かのこぎ、肥後国鹿子木荘(かのこぎのしょう)のこと)の事
一、当寺の相承(そうしよう)は、開発領主沙弥(しやみ、在俗の僧のこと)寿妙(じゆみよう)嫡々(ちやくちやく)相伝(そうでん)の次第なり。
一、寿妙の末流高方(たかかた、寿妙の孫である中原高方のこと)の時、権威を借らむがために、実政(さねまさ)卿(大宰大弐(だざいのだいに)である従二位(じゆにい)藤原実政のこと)を以(もっ)て〔1    〕と号し、年貢四百石を以て割(さ)き分(わか)ち、高方は庄家(しようけ、荘園の管理施設のこと)領掌(りようしよう、領有して支配すること)進退(自由にあつかうこと)の〔2    〕職 ((ふつう下司・公文などの下級荘官を指揮して現地を管理・支配する上級荘官のこと、職は職務とそれにともなう権益のこと)となる。
一、実政の末流の願西(がんさい、藤原隆通(ふじわらのたかみち)が出家後に名乗った法名のこと)微力の間、〔3    〕の乱妨を防がず、この故に願西、〔1    〕の得分(収益のこと)二百石を以て、高陽院内親王(かやのいんないしんのう、鳥羽天皇(とばてんのう)の皇女のこと)に寄進す。(中略)これ則ち〔4    〕の始めなり。
(東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじよ)、原漢文)


空欄にあてはまる語句は分かりましたか?

1…領家
2…預所
3…国衙
4…本家

入試で狙われるのは、たいていこの部分ですが、
たま~に鹿子木荘の場所(肥後国、現在の熊本県)を問われたり、
高陽院内親王のお父さん(鳥羽天皇)のことを問われたりすることもあります。

では、この史料を、簡単に訳しておきましょう。

鹿子木荘のこと
一、鹿子木荘は、開発領主である寿妙の子孫が代々受けついできたものである。
一、寿妙の孫である中原高方は、権威を借りるために藤原実政を領家とし、年貢のうち400石を上納した。そして、中原高方は荘園の現地を完全支配する預所となった。
一、藤原実政の孫である願西には力がなく、国衙の不当な干渉を防げなかった。そこで願西は、領家の収益のうち200石を上納する条件で、高陽院内親王に寄進した。これが鹿子木荘の本家のはじめである。

つまり、
開発領主の寿妙の孫にあたる中原高方が、藤原実政に土地を寄進し、
藤原実政が領家、中原高方が荘官(預所)となった。
その後、藤原実政の孫にあたる願西が、高陽院内親王に土地を寄進し、
高陽院内親王が本家となった、ということですね。

人間関係が見えてきましたか?
プリントの右上にある鹿子木荘の表に、人名を埋めて、頭を整理しておいてください。

ちなみに、この史料の出典は、東寺百合文書です。
とうじゆりもんじょ、じゃないですよ、とうじひゃくごうもんじょ、と読みます。
中世を中心とするたくさんの古文書(こもんじょ)が入った約100個の箱が、
東寺(教王護国寺)に伝わったのが、その名前の由来です。

*   *   *

ひとまず荘園制度のお話はこれで終わります。
でも、すぐに荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)が登場しますので、
ここまでのところをしっかりと整理しておいて下さいね!

それでは、最後に解答を載せておきましょう。

平安11解答.jpg



次回から、2回にわたって武士を取り上げます。

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平安時代(10) [まとめプリント]

今日取り上げるのは、ややこし~いややこし~い荘園制です。
なかなか理解できませんよね~、これ…
私も高校生のころは、ナニがナンだかさっぱり分からなくて、ホントに苦手でした。
なので、分かりますよ!その気持ち!!

より多くの人に理解してもらえるよう、かみくだいた説明を心がけますので、しっかりついてきてください!
では、スタートです!!

平安10.jpg

はじめに、律令制度下の税制を、簡単に確認しておきましょう。
・ 課税対象……戸籍・計帳に記載された成人男子が中心
・ 徴税請負人…郡司(国司は行政担当)
・ 税の種類……租・課役(庸・調・雑徭)など
          租は6歳以上の男女に、課役はおもに成人男子に課せられる
このあたり、頭のなかでしっかり整理できていますか~?
ウロ覚えだという人は、飛鳥時代(10)でしっかりと復習しておいてください。

とにもかくにも、律令制度下での税制は、
・課税対象は人間(人頭税)
・郡司が徴税を請け負う
以上の2点を頭に入れておいてください。

平安10-1.jpg

8~9世紀に成立した律令制度ですが、時代が進むにつれ、ガタが来はじめます。
浮浪(ふろう)・逃亡(とうぼう)・偽籍(ぎせき)などの横行により、
課税対象である人間の居場所や性別が、きちんと把握できないという事態に陥ってしまうのです。
また、貴族や大寺社は、743年に土地の私有が認められたのをいいことに、
浮浪・逃亡中の農民なんかを使って、どんどこ荘園を拡大しまくります。
このままだと、国家は満足に税を徴収することができません。

そこで立ち上がったのが、醍醐天皇(だいごてんのう)です。
律令体制の再建(税のことは令に定められているので、令制の再建でもOK!)を目指して、
902年に延喜の荘園整理令を発令し、また班田収授を励行するよう命じるのです。

平安10-2.jpg

しかし、この年につくられた阿波国(あわのくに、現在の徳島県のこと)の戸籍を見ると、
5戸435人の男女の内訳が、男59人、女376人なんですよ。
イヤイヤ!いくらなんでも女多すぎダロ!!
男として生まれたけど、戸籍には女と登録することで、税負担を軽くしようとしたのでしょう。
そう、明らかに偽籍です、これ。
もうね、59人の男性には拍手ですよ…
頑張れとしか言いようがない…(涙)

というわけで、今さら班田収授を励行しろ!なんて言われても、
こんな戸籍じゃ、ちゃんとしようにもちゃんとできないわけです!!

結果、班田収授は、902年を最後におこなわれなくなります(以降のものは、史料上確認できていません)。
延喜の荘園整理令は、不徹底に終わってしまうのです。

このころ、三善清行(みよしのきよゆき)という学者が、
意見封事十二箇条(いけんふうじじゅうにかじょう)という意見書を、醍醐天皇に提出しています。
ここでは、班田収授の限界と、それによる地方政治の混乱ぶりなどが指摘されています。
10世紀初頭、律令体制は崩壊していたのです…



もちろん、このままでいいわけがありません!
政府はついに、税制の改革に踏み切ります!!

人間を課税対象としてきたこれまでの税制(人頭税)を廃止し、
土地を課税対象とする負名体制(ふみょうたいせい)を確立するのです。

さぁ~、ここからですよ!
ややこしいのは!!
気合い入れていきましょう!!!

課税対象が人間から土地に変わったので、
まずは公領(国の土地)を、名(みょう)または名田(みょうでん)と呼ばれる徴税単位に再編成します。
この耕作を請け負うのが、田堵(たと、田刀と表記することもアリ)と呼ばれる有力農民です。
なかには、国司と結んで大規模な経営をおこない、大名田堵(だいみょうたと)と呼ばれるものも現れます。

名の耕作を請け負う田堵は、負名(ふみょう)と呼ばれ、名にはその人の名前がつけられます。
たとえば、太郎さんが耕作を請け負う名は、太郎名とか太郎名田とか、そんな感じで呼ばれるわけです。

また、税の種類も、
租・庸・調や公出挙(くすいこ)の利稲(りとう)に由来する官物(かんもつ)と、
おもに雑徭に由来する臨時雑役(りんじぞうやく)とに一新されます。

これらの税を徴収するのは誰かというと、国司です。
負名は、名の耕作とともに、これらの税をきちんと納入することを、国司から請け負うのです。

ちなみに、負名は名の所有権を持ちません。
その土地の耕作を、国司から請け負うだけです。

でもね、ずーーっとその土地の耕作を請け負っているとね、
だんだん名に対する権利を強めていっちゃうんですよ。
だって、実際にその土地を経営しているのは、国司じゃなくて負名なんですもん。
こうして負名は、11世紀半ばごろには、
名主(みょうしゅ、なぬしと読んではいけません!)と呼ばれるまでに成長します。
これについては、またのちのち詳しく見ていきます。

負名体制を簡単にまとめると、以下の通りです。
・ 課税対象……名(名田)と呼ばれる土地
・ 徴税請負人…国司(郡司の役割は低下)
・ 税の種類……官物・臨時雑役

つまり、10~11世紀にかけて、
・課税対象は土地(地税)
・国司が徴税を請け負う
という風に、税制が大転換するのです。

平安10-3.jpg

これまで徴税は郡司がおこなっていたのに、
これからは国司が担うわけですから、国司たいへんですよねぇ…
よって政府は、その見返りとして、国司に任国の支配を一任します。
決められただけの税を、きちんと政府に納めさえしてくれたら、
あとは好きにしていいからねー!ということです。

いや~、なんだかガッポリ儲かりそうなニオイがぷんぷんしますよね~。
ゆえに、中級・下級の貴族たちは、こぞって「国司になりたい!」って思うわけです!!

そこで彼らは、我こそはと朝廷の儀式や寺社の造営などの費用を負担します。
これだけの費用を私が負担します!だから私を国司に任命してチョーダイ!!とゆーわけです。
この行為を、成功(じょうごう)といいます。
まぁワイロですよね、ワイロ!

成功の結果、念願の国司に任命されると、
任国で好き放題のウハウハライフを送ることができるわけですが、
このころ、国司の任期は4年です。
4年なんて、アッとゆー間に過ぎてしまいます。

こんなオイシイ仕事、4年じゃ辞めらんない!まだまだ続けたい!!と思うなら、
これまた成功をおこなえばよいのです。
成功の結果、再び国司に任命してもらうことを、重任(ちょうにん)といいます。
重ねて任命されるので、重任です。

成功と重任を繰り返すなかで現れるのが、受領(ずりょう)です。
受領とは、任国に赴く国司のなかの、最上席者を指します。
国司の四等官は、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)ですので、
守レベルの国司ということです。

これがもうガメツイのですよ!
たとえば、プリントの右側にある「③地方政治の乱れ」の、1つめの●を見てください。
・信濃守(しなののかみ)の藤原陳忠(ふじわらののぶただ)
・尾張守(おわりのかみ)の藤原元命(ふじわらのもとなが)
これが、ガメツイ受領の代表格です!
詳しくは、988年のゴロ合わせをご覧ください。

11世紀後半になると、任国の統治も軌道に乗りはじめ、
わざわざ任国へ行かなくてもよくね?と思う受領も現れるようになります。
一族の人間や家来筋に当たる人間などを、かわりに任国へと派遣するのです。
この代理人を、目代(もくだい)といいます。

目代は、在庁官人(ざいちょうかんじん)と呼ばれる現地の有力者を指揮し、任国の統治にあたります。
目代と在庁官人で構成される任国の国衙は、留守所(るすどころ)と呼ばれます。

この行為を遙任(ようにん)といい、このような国司を遙任国司(ようにんこくし)といいます。

いや~…やっぱり荘園制、ややこしいですね…
ちゃんと理解できましたか?
ここまで理解していないと、次の荘園公領体制(しょうえんこうりょうたいせい)には進めませんので、
頑張って頭を整理してくださいね!!

それでは、最後に解答を載せておきましょう。

平安10解答.jpg



次回も荘園制を取り上げます。
頑張りましょうね!!

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平安時代(9) [まとめプリント]

前回に引き続き、国風文化を見ていきましょう。
今日は、宗教・美術、そして貴族の生活Ⅱ(日常の制約・年中行事・結婚)を取り上げます。

平安9.jpg

まずは、プリントの左側にある宗教です。

①仏教の浸透
みなさんは、神社やお寺でどんなことをお願いしますか?
 「健康で過ごせますように…」
 「夏までに痩せますように…」
 「志望校に合格できますように…」
そんな感じのお願い事が多いのではないでしょうか…

これらのお願い事は、すべて現世利益(げんぜりやく)の追求です。
現世での利益、すなわち、この世での幸せ。
それを叶えて欲しい!というアツい気持ちで、神さまや仏さまにお願いをするわけです。
だって、自分がいま生きているのはこの世なわけですから、
この世で幸せになりたいって思うのはトーゼンじゃないですか!

平安時代の貴族たちも同じです。
現世利益を成就(じょうじゅ)させるため、呪文を唱えるなどして神さまや仏さまに祈るのです。
この行為を、祈祷(きとう、正式な漢字はプリントを見てください…激ムズです!)といいます。
祈祷をおこなう天台宗や真言宗は、
このような現世利益を追求する貴族たちとも結びついて、さらに力を得るようになるのです。

②神仏習合(しんぶつしゅうごう)の発達
神仏習合とは、平安時代(3)でも登場しましたが、
神さま(神社)と仏さま(寺院)に対する信仰が、ごちゃまぜになってしまったもののことです。

このころ、神仏習合のなかから、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)という考えが生まれます。
日本には神さまがいーっぱいいますが(天照大神(あまてらすおおみかみ)からトイレの神さままでね・笑)、
それらはホントは仏さまで、神さまに形をかえて、この世に現れたものなんだよ、という思想です。
神さまという仮()の姿でれることを、権現(ごんげん)といったりします。

また、それぞれの神さまについて、特定の仏さまがその本地(ほんじ)として定められます。
本地とは、本来の姿、まぁ正体といったところです。
つまり、「この神さまの正体は、あの仏さまなのだ!」ということが、決められるのです。
たとえば、天照大神という神さまの本地は、大日如来(だいにちにょらい)という仏さまなのだそうです。

本地垂迹説、分かりましたか?
ややこしすぎて、頭がこんがらがりそうですね…
ざっくり言うと、見た目は神さまだけど、ホントのところは仏さま!、ということです。

それにしてもこれ、神社からすると不満ですよねぇ…
だって、神社で大切にお祀(まつ)りしている神さまを、仮の姿だ、なんて言っちゃってるんですよ!
とゆーわけで、鎌倉時代の末期になると、
「この仏さまの正体は、あの神さまなのだ!」という反対の説が登場します。
その名もズバリ、反本地垂迹説(はんほんじすいじゃくせつ)!!(笑)
これについては後日、鎌倉文化のところで詳しくご紹介しましょう。

③御霊信仰(ごりょうしんこう)のひろがり
御霊信仰とは、怨霊(おんりょう)や疫神(えきじん)をお祀(まつ)りすることによって、
疫病(えきびょう)や飢饉(ききん)などの災厄(さいやく)から逃れようとする信仰のことです。
この信仰から、御霊会(ごりょうえ)がさかんにもよおされるようになります。
詳しくは、901年のゴロ合わせをご覧ください。

④浄土教(じょうどきょう)の流行
浄土教とは、阿弥陀仏(あみだぶつ)、または、阿弥陀如来(あみだにょらい)と呼ばれる仏さまを信仰し、
来世(らいせ、あの世のこと)において極楽浄土(ごくらくじょうど)に往生(おうじょう)し、
そこで悟(さと)りを得て苦がなくなることを願う教えです。

1052(永承七)年から末法の世に入るという末法思想(まっぽうしそう)を背景に、
また、空也(くうや)、源信(げんしん)または恵心僧都(えしんそうず)、
慶滋保胤(よししげのやすたね)らの活動もあいまって、
人々の間に「この世はもうダメ…せめてあの世で幸せになりたい!」という考えが広がり、
浄土教は、貴族から庶民にいたるまで、爆発的な人気を博するようになります。
現世利益も求めるけど、その現世がぐちゃぐちゃならば、せめて死んでから…!と願うわけですね。
詳しくは、1052年のゴロ合わせをご覧ください。

⑤各地に経塚(きょうづか)が営まれる
経塚とは、法華経(ほけきょう)などのお経を書き写したものを、経筒(きょうづつ)という入れ物におさめ、
地中に埋めた場所をさします。
藤原道長は、奈良の金峯山(きんぷせん)という山に、立派な経塚をつくったようで、
そのとき用いたゴージャスな経筒が、国宝として今に伝わっています。

*   *   *

続いて、貴族の生活Ⅱを見ていきましょう。

①日常の制約
このころの貴族の生活には、いろーんな制約があったようです。
たとえば、物忌(ものいみ)とか方違(かたたがえ)があるのですが、
古典の授業で習いましたか?

物忌は、占いで凶がでたときや怖い夢を見たときなど、
一定期間、特定の建物のなかで謹慎(きんしん)することです。
方違は、外出しようというとき、向かう方角が凶と出た場合は、
前の日に違う場所に一泊するなどして、向かう方角が吉になるようにすることです。
わぁ~、もう現代人からすると、どっちもめんどくさいですね…(笑)

ところで、そもそも誰が凶と判断するのかというと、陰陽師(おんみょうじ)という役人です。
10世紀ごろに活躍した安倍晴明(あべのせいめい)が最も有名ですが、聞いたことありますか?
フィギュアスケートの羽生弓弦選手が、ピョンチャンオリンピックで金メダルを獲得しましたが、
そのときのフリーのテーマは「SEIMEI」。
まさに陰陽師の安倍晴明をモチーフにしたものだったのですよ~。

さて、その陰陽師。
中国で生まれた陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)という思想に基づいて、
さまざまな呪術や祭祀に携わります。
また、星の動きや暦などから吉凶も占い、貴族の生活にも影響をおよぼすようになるのです。

「ちゃんと制約守って生活してんのに、全然いいことないじゃん!」と、この世に失望し、
ますますあの世に期待して浄土教を信仰する貴族もいたようです。

②年中行事(ねんじゅうぎょうじ、または、ねんちゅうぎょうじ)
朝廷において、毎年同じタイミングでおこなわれる儀式のことです。
日本古来の風習や、中国に起源のあるものなど、
さまざまな行事が、宮廷生活のなかで儀式として洗練・発達してゆきます。
いくつか例をあげておきましょう。
現在もおこなわれているものが、結構ありますよ!

●神事(しんじ)
・大祓(おおはらえ)
…毎年6月と12月の晦日(みそか、最終日のこと)におこなわれる
 人々についた罪・穢(けがれ)・災(わざわい)などを取りのぞいて清浄にする儀式
・賀茂祭(かものまつり)、または、葵祭(あおいまつり)
…毎年4月におこなわれる賀茂神社(かもじんじゃ)の例祭(毎年決まった月日におこなわれるお祭りのこと)
 現在も、毎年5月15日におこなわれています
・四方拝(しほうはい)
…元日の早朝、天皇が清涼殿(せいりょうでん、朝廷の建物の1つ)で、四方を拝する儀式
 現在も、毎年1月1日に、天皇陛下が皇居においてつとめられています
●仏事(ぶつじ)
・灌仏(かんぶつ)
…毎年4月8日(お釈迦さまのお誕生日)におこなわれる
 お釈迦さまの像に、甘茶をかけたりする儀式で、現在では「花まつり」と呼ぶのが一般的です
●遊興(ゆうきょう)
・七夕(たなばた)
…毎年7月7日におこなわれる
 みなさんご存知、たなばた祭りのことです
・相撲(すまい)
…毎年7月28日前後におこなわれる
 天皇も観戦する相撲大会です
●政務
・叙位(じょい)
…役人に位階を与える儀式
・除目(じもく)
…大臣以外の官職を任命する儀式

③結婚
一般的に、結婚した男女は、奥さん側の両親と同居するか、新居を構えて住むかのどちらかになります。
旦那さんは、奥さんのお父さん(義理のお父さん)の庇護(ひご、守られること)を受け、
子どもは母方の手(子どもから見ると、お母さん側のじぃじとばぁばたちのこと)で養育されます。
つまり、お母さん側の親戚の影響力がとてもとても強いのです!
結婚して子を持つ身になった今の私からすると、これがいかに合理的かよく分かります(笑)

この外戚関係(がいせきかんけい)を利用したのが藤原北家です。
娘を天皇の奥さんとし、そこに生まれた子ども(外孫、がいそん)を次の天皇とし、
みずからは天皇の外祖父(がいそふ)として権力をほしいままにしたわけです。

また、このようにして強大化した藤原北家は、人事にも大きな発言力を持つようになります。
結果、豊かな国の国司に任命してもらいたい中級貴族や下級貴族たちによって、
藤原北家はさらにヨイショされまくるのです。



続いて、プリントの右側にうつりましょう。

*   *   *

書道

この時代の能書家(のうしょか、字がうまい人のこと)を、3人紹介しましょう。
・小野道風(おののみちかぜ、または、おののとうふう)
・藤原佐理(ふじわらのすけまさ、または、ふじわらのさり)
・藤原行成(ふじわらのゆきなり、または、ふじわらのこうぜい)
彼らをまとめて、三跡(さんせき)、または、三蹟(さんせき)といいます。
いずれも優美で流麗な文字を得意とし、その書風を和様(わよう)といいます。

ちなみに、三筆(さんぴつ)との区別はついていますか?
三筆と三跡、それぞれまとめておきましょうね。
●三筆…弘仁・貞観文化、唐風
      嵯峨天皇・空海・橘逸勢
●三跡…国風文化、和様
(三蹟) 小野道風・藤原佐理・藤原行成
↓ アホみたいな覚え方ですが、よろしければどうぞ!(笑)          
平安9-1.jpg

*   *   *

寺院

浄土教の流行にともない、このころ阿弥陀堂(あみだどう)がたくさんつくられます。
阿弥陀堂とは、阿弥陀仏を本尊(ほんぞん、そのお堂におけるメインの仏さまのこと)とする建物のことです。
国風文化の時代に建立されたものとして覚えてもらいたいのは、次の3つです。

①法成寺(ほうじょうじ)
…藤原道長が、京都に建立した阿弥陀堂(残念ながら、現存していません)
 1016年のゴロ合わせにも書いたように、彼はここで生涯を閉じます
 このお堂を建てたことから、藤原道長は「御堂関白」(みどうかんぱく)と呼ばれ、
 自身の日記のタイトルも『御堂関白記』(みどうかんぱくき)とします
 ただし!
 藤原道長は関白にはなっていませんので、注意してくださいね!!
②平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)
…藤原頼通(ふじわらのよりみち)が、京都の宇治に建立した阿弥陀堂
 ここから、藤原頼通は「宇治殿」(うじどの)と呼ばれるようになります
 完成は、末法の世に突入した翌年にあたる1053年です
 2012年から2014年にかけて、大規模な修復工事がおこなわれ、創建当時の姿が再現されました
 ↓ before(2006年撮影)
 hououdou-old.png
 ↓ after(2015年撮影)
 hououdou.png
 いやぁ~、beforeも渋くていいですけど、
 創建当時の色鮮やかさは、まさに極楽浄土ですね(行ったことないけどね…)
 この建物は、10円玉に描かれているので、みなさん馴染(なじ)みがありますよね
 ただ、平等院鳳凰堂が描かれているのは、10円玉だけではないのです!
 さぁ!一万円札を出してみてください!!(財布に入ってますか~…?笑)
 裏面の鳥は、平等院鳳凰堂の屋根にいる鳳凰なんですよ~!!!
③法界寺阿弥陀堂(ほうかいじあみだどう)
 貴族の日野氏が、京都に建立した阿弥陀堂
 
そのほか、京都の醍醐寺(だいごじ)にある五重塔(ごじゅうのとう)も、
国風文化を代表する建築物です。

*   *   *

仏像

浄土教の流行により、仏師(ぶっし、仏像などをつくる職人のこと)のもとには、
阿弥陀仏の像をつくってほしい、との注文が殺到します。
この大量需要にこたえるには、従来の一木造(いちぼくづくり)では間に合いません。
そこで、仏師の定朝(じょうちょう)は、
仏像をパーツごとに分担してつくり、最後に寄せ集めて完成させる、という技法を編み出します。
これを、寄木造(よせぎづくり)といいいます。
平安9-2.jpg
国風文化の時代の仏像として有名なのは、次の2つです。

①平等院鳳凰堂 阿弥陀如来像(びょうどういんほうおうどう あみだにょらいぞう)
…確実に定朝が作ったことが判明している、唯一の作品です
 3m近くある、すごくすごく大きい阿弥陀如来像です
 ↓ こんな感じで、平等院鳳凰堂の正面からお顔を拝見することもできます(逆光のときは諦めてください…)
 hououdou-amida.png
②法界寺 阿弥陀如来像(ほうかいじ あみだにょらいぞう)
…平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像と同時期につくられたとされる作品

ちなみに、①も②も座っている姿の阿弥陀如来像なので、
阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)と表記される場合もあります。

*   *   *

絵画・工芸

①絵画
・来迎図(らいごうず)
…往生しようとする人を迎えるため、仏さまが来臨(らいりん)する場面を描いたものです
 ざっくり言うと、仏さまがお迎えに来たシーン、ということです
 代表作品は、「高野山聖衆来迎図」(こうやさん しょうじゅらいごうず)です
・大和絵(やまとえ)
…季節のうつろいなどを題材とした、日本らしい絵画のことです
 のち、土佐派(とさは)や住吉派(すみよしは)などの流派が生まれます
 中国の故事(こじ、昔々にあったいいお話のこと)などを題材とした唐絵(からえ)とともに、
 寝殿造の襖や屛風に描かれたようですが、残念ながら現存していません
 大和絵の代表的な画家として、巨勢金岡(こせのかなおか)という名前だけが伝わっています
 ちなみに、平等院鳳凰堂の扉に描かれた絵は、傷みが激しく、何度か修復をしていますが、
 平安時代の大和絵の形成を示すものとして知られています

②工芸
・蒔絵(まきえ)
…漆(うるし)で文様を描き、それに金粉や銀粉などを蒔(ま)きつけて模様とする漆器(しっき)の技法
 おうちに、金色の線で絵が描かれている、黒光りした高そうな器はありませんか?
 蒔絵のほどこされた漆器かもしれませんよ~!
・螺鈿(らでん)
…貝殻の真珠光(しんじゅこう)の部分(貝の内側のピカピカした部分)を薄く剥(は)いでみがき、
 色々な形に切って漆器に埋め込む技法

蒔絵や螺鈿がほどこされた工芸品は、輸出品としても珍重(ちんちょう)されたようです。

数年前に、京都の「嵯峨螺鈿野村」さんで、蒔絵と螺鈿の簡単な体験をしてきました。

まずは螺鈿。
貝のピカピカの部分を加工したものを、きれいに切っていきます。
結構難しいです!
↓こんな感じです。
raden.png
それを漆のお盆にのりで貼り、漆で絵を描きます。
そして、いよいよ蒔絵。
金粉をのせ、漆の線の上をこすっていきます。
↓こんな感じです。
makie.jpg
↓ 2時間ほどで、螺鈿と蒔絵がほどこされた、ステキなお盆(自画自賛…笑)が完成しましたよ!
kansei.jpg
ピカピカしている葉の部分が螺鈿、金色の線の部分が蒔絵です。
分かりますか~?

では最後に、解答を載せておきましょう。

平安9解答.jpg



次回から、ややこし~いややこし~い荘園制に入ります。

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画像出典
http://www.kashikoken.jp/museum/tenrankai/kako/2009/09spring/index.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E9%81%93%E9%A2%A8
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BD%90%E7%90%86
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%A1%8C%E6%88%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%8D%E9%86%90%E5%AF%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%AD%89%E9%99%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%95%8C%E5%AF%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E5%B3%AF%E5%AF%BA
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平安時代(8) [まとめプリント]

今日から2回にわたって、10~11世紀に平安京を中心に栄えた、国風文化(こくふうぶんか)を取り上げます。
藤原北家(ふじわらほっけ)による摂関政治(せっかんせいじ)の時代に花開いた文化なので、
たまーに藤原文化(ふじわらぶんか)と呼ばれることもあります。
この文化の担い手は、もちろん藤原北家をはじめとする貴族たちです。



はじめに、国風文化のおもな特徴を、3つにまとめておきましょう。

①大陸文化の摂取・消化のうえに成立した、日本の風土や日本人の人情・嗜好(しこう)にかなった、
  優雅(ゆうが)で洗練された文化
→これまで栄えていたのは、大陸(中国など)の文化の影響を強く受けた、唐風(とうふう)の文化でしたが、
  894年に遣唐使が停止されたこともあり、日本に合った独自の文化が発展します。
②かな文字(仮名文字、とも表記します)の発達による国文学の発達
→平がな(平仮名)や片かな(片仮名)の成立により、さまざまな文学作品が生み出されます。
③浄土教(じょうどきょう)の流行
末法思想もあいまって、このころ浄土教が流行し、それが美術面をはじめ、さまざまなところに影響を及ぼします。

以上が、国風文化の簡単な特徴です。
今日は、国風文化のうち、文学と貴族の生活Ⅰ(衣食住など)を見ていきます。

平安8.jpg

まずは、文学です。
プリントの左側を見ながら、ついて来てくださいね~!

①かな文字の発達
かな文字の成立が、国文学のめざましい発達をもたらします。
かな文字とは、みなさんよーくご存知の、平がなと片かなのことです。

これまで人々は、漢字を用いて日本語の音を表記する、万葉がな(まんようがな)を用いてきました。
しかし、漢字は、1文字1文字に意味がこめられた、表意文字(ひょういもじ)です。
そのため、万葉がなを使っていると、
表現したい言葉とは違うイメージが乗っかってきちゃうことがあったのです。

たとえば、『万葉集』に収録される和歌の1つに、
 天地(あめつし)の いづれの神を 祈らばか 愛(うつく)し母に また言(こと)とはむ
というのがあります。
意味は、天の神様、地の神様、どの神様に祈ったら、愛しい母親にまた話しができるのでしょうか…です。

これ、現代人に読みやすいよう、漢字と平がなを使って表記しなおしたのですが、
『万葉集』に収録されたまんまの万葉がなで表記すると、
 阿米都之乃 以都例乃可美乎 以乃良波加 有都久之波々尓 麻多己等刀波牟
となります。

両者を比べてみてください。
万葉がなは、日本語の1つ1つの音を、1文字ずつ漢字にあてはめているのが分かりますね。
そして、この和歌では、お母さんを意味する「はは」が、「波波」と表記されていることが見て取れます。
うーん、なんだか「お母さんって、サーファーだったの!?」ってなイメージが乗っかってきませんか?(笑)

平安8-2.jpg

極端な例を出しましたが、漢字が表意文字であるがゆえに、
万葉がなだと、自分の思ったことがそのまんま正確に伝えられないことがあったのです。
そこで誕生したのが、かな文字です。
平がなの「い」は、「い」という音だけ、
片かなの「イ」は、「イ」という音だけを表す、表音文字(ひょうおんもじ)です。
平がなは、万葉がなの草書体(そうしょたい、くずした漢字のこと)を簡単にして作られ、
片かなは、漢字の一部分から作られました。

平安8-1.jpg

これらのかな文字が成立したことで、
日本人の感情や感覚を、正確に、より生き生きと伝えられるようになり、
国文学が発達したのです。

ちなみにこの時代、平がなを使用するのは、主に女性でした。
よって、平がなは女文字(おんなもじ)とか、女手(おんなで)とも呼ばれたようです。
また、貴族が自分の娘を天皇と結婚させる際、家庭教師として才能豊かな女性を雇いました。
これらがあいまって、平安時代には多くの女流作家が活躍することになるのです。

では、おもな文学作品を、簡単に見ていきましょう。

②かな文学
古典の授業で、習ったことのある作品が多いかもしれません。

● かな物語(かな文字で書かれた物語)
・『竹取物語』(たけとりものがたり)/作者未詳
…かぐや姫の伝説を題材とした伝奇物語(でんきものがたり、いわゆるファンタジー)
 かぐや姫のお婿(むこ)さん選びのシーンでは、貴族社会の内面が描写される
・『伊勢物語』(いせものがたり)/作者未詳
…超イケメンの在原業平(ありわらのなりひら)とおぼしき男性の恋愛談
 和歌を中心とした、ラブストーリー短編集
・『宇津保物語』(うつほものがたり)/作者未詳
…左大将の娘をめぐる結婚談などで構成
 彼女が貴族たちから求婚されまくるシーンは、『竹取物語』の影響を受けているっぽく、
 また、この物語の写実的な描写は、『源氏物語』に影響を与えたとされる
・『落窪物語』(おちくぼものがたり)/作者未詳
…継子(ままこ、血のつながりのない子どものこと)いじめの物語
 継母(ままはは)に虐待されたお姫さまが、貴族と結婚して幸せになる、というシンデレラみたいなお話
・『源氏物語』(げんじものがたり)/紫式部(むらさきしきぶ)
…光源氏(ひかるげんじ)という超イケメンをおもな主人公にした、ありとあらゆるラブストーリー
 藤原氏全盛期の貴族社会を描写した大作
 作者の紫式部は、一条天皇の中宮である藤原彰子(ふじわらのしょうし、藤原道長の娘)の家庭教師

● かな随筆(かな文字で書かれた随筆)
・『枕草子』(まくらのそうし)/清少納言(せいしょうなごん)
…「春はあけぼの」で始まる、宮廷生活の体験をあらわしたエッセイ集
  作者の清少納言は、一条天皇の皇后である藤原定子(ふじわらのていし)の家庭教師

● かな日記(かな文字で書かれた日記)
・『土佐日記』(とさにっき)/紀貫之(きのつらゆき)
…最初のかな日記
 土佐守(とさのかみ、土佐国の国司)の任期を終え、平安京に帰るまでの旅行日記
 「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」という一文で始まります
 「男が書く日記というものを、女の私も書いてみようと思って書くの」ってな意味ですが…
 作者は完全に男です!男!!
 かな文字は主に女性が使うものなので、女性のふりしてかな日記を書いちゃった☆、というわけです
・『蜻蛉日記』(かげろうにっき)/藤原道綱(ふじわらのみちつな)の母
藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の奥さんが書いた日記
 旦那のほかの奥さん(藤原道長のお母さん)との競争や、旦那に次々とできる愛人について、
 また、息子である藤原道綱の成長などを書いた日記
・『和泉式部日記』(いずみしきぶにっき)/和泉式部
…和泉式部が、敦道親王(あつみちしんのう)との恋を、和歌をたっぷり盛り込んで回想した日記
・『紫式部日記』/紫式部
…藤原彰子に仕える紫式部が、宮中の様子などを記したもの
 ちなみに、紫式部はこの日記のなかで、清少納言のことを、
 「頭がいいふりして漢字を書きまくってるけど、中身は幼稚よね」みたいにディスっています…
・『更級日記』(さらしなにっき)/菅原孝標(すがわらのたかすえ)の女(むすめ)
…上総国の国司の任期を終えた菅原孝標とともに平安京に戻ってきた娘の回想日記
 念のため言っておきますが、彼女は菅原孝標の娘ですからね!
 「菅原孝標のオンナって…一体……!!」って、変な妄想をふくらませないように!!(笑)

③漢文学
このころ、公式の場では、従来通り漢文(奈良時代よりは、ちょっとくだけたもの)が使用されています。
貴族の男性の日記なども、すべて漢文で書かれています。
ちなみに、かな(仮名)に対して、漢字のことを真名(まな)と呼んだりします。

● 日記
平安時代、朝廷では儀式や行事が増大します。
そこで貴族たちは、のちの人々の参考になるように…と、
「この儀式では、こんな準備をして、当日はこうやって動いた」とか、
「この行事はこんな服装で参加した」というようなことを、日記として記録するようになります。
そう、この時代の日記は、他人に見せることが前提なのです。
まぁいまの時代のSNSもそうですけどね!
・『御堂関白記』(みどうかんぱくき)/藤原道長
…御堂関白(みどうかんぱく)と呼ばれた藤原道長の日記
 写真で見ると、こんな感じです
 御堂関白記.jpg
 漢字ばっかりで書かれているのが分かりますね
 私は、ガラスケース越しに『御堂関白記』を何度か拝見したことがあるのですが、
 もうね、「あの藤原道長が書いた文字なんや!あの藤原道長が触った紙なんや!!」と、感動しました
 機会があれば、ぜひ直接、自分の目で見て頂きたいと思います
 当たり前ですけど、「藤原道長って本当にいたんだ…」ということを実感しますよ!
 11世紀の最高権力者の日記が直筆で遺(のこ)っている、というのは世界的に珍しく、とても貴重です
 ちなみに、『御堂関白記』というタイトルですが、藤原道長は関白にはなっていませんので注意してください
 彼が就任したのは、摂政と太政大臣です
・『小右記』(しょうゆうき)/藤原実資(ふじわらのさねすけ)
…藤原道長が詠んだ「此の世をば…」の和歌を収録していることで有名な日記
 野宮家(おののみやけ)の大臣である藤原実資の日、ということで、タイトルは『小右記』です

●その他
・『和(倭)名類聚抄』(わみょうるいじゅうしょう)/源順(みなもとのしたごう)
…百科事典のような漢和辞書

④和歌集
ラブレターも和歌で!という平安時代は、和歌が非常に発達します。
平安前期を代表する和歌の名人といえば、
僧正遍昭(そうじょうへんじょう、僧正はお坊さんの位)・在原業平・小野小町(おののこまち)
喜撰(きせん)・文屋康秀(ふんやのやすひで)・大友黒主(おおとものくろぬし)の6人です。
まとめて六歌仙(ろっかせん)といいます。

・『古今和歌集』(こきんわかしゅう)/紀貫之・紀友則(きのとものり)・壬生忠岑(みぶのただみね)など
…醍醐天皇の命でつくられた、最初の勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)
 収録された和歌は、優美で繊細で技巧的なものが多く、この歌風を古今調(こきんちょう)といいます
 ちなみに勅撰和歌集とは、天皇や上皇の命令で編纂された和歌集のことをいいます
 勅撰和歌集は、『古今和歌集』を含めて8つ作られ、これらをまとめて八代集(はちだいしゅう)と呼びます
・『和漢朗詠集』(わかんろうえいしゅう)/藤原公任(ふじわらのきんとう)
…朗詠(ろうえい)に適する和歌や漢詩文を集録したもの
 なお、朗詠とは、和歌や漢詩文をメロディーにのせて歌うことです

*   *   *

続いて、プリントの右側にある、貴族の生活Ⅰ(衣食住)を見ていきます。

①衣
貴族は、これまで着ていた唐風の服装を、
日本人向きにガラッとつくりかえた優美なものを着用するようになります
衣料はおもに絹で、文様(もんよう)や配色(はいしょく)などに日本風の意匠(いしょう)をこらします

● 貴族の男性
・束帯(そくたい)
…正装
 頭に冠をかぶり、衣はねます
 すそには裾(きょ)という長~いぺらぺらが見えますが、この長さで身分が分かるようになっています
・衣冠(いかん)
…束帯に次ぐ正装
 をつけ、をかぶります
 束帯と衣冠は、身分などによって着用する色やアイテムが決まっています
・直衣(のうし)
…普段着
 頭には烏帽子(えぼし)と呼ばれる帽子をかぶります
・狩衣(かりぎぬ)
…狩りなどにでかける際などに着用する普段着
 肩の部分が開いていて(下に着た着物が見えるので、おしゃれも楽しめる)、
 そでにはヒモが通してあり(ヒモを引っ張れば、そでをしぼることができる)、
 動きやすく、スポーティーな衣です
 ↓次の写真は、みんな狩衣を着用しています(私もマイ狩衣を着てどこかにいます…笑)
 狩衣.png
 直衣と狩衣は、色もガラも好きなもの自由に着られるので、集まるとこんな風にカラフルです(笑)
 ちなみに、フィギュアスケートの羽生弓弦選手が、ピョンチャンオリンピックで金メダルをとりましたが、
 フリーの衣装の肩とそでの部分を見てみてください、狩衣をモデルにしていることが分かりますよ!
● 貴族の女性
・女房装束(にょうぼうしょうぞく)
…正装、いわゆる十二単(じゅうにひとえ)
 色の組み合わせなどを考えながら、たくさんの着物を重ね着します(12枚とは限りません)
 よって、すごく重くて、だいたい20kgほどになったとか…動けませんね…
 ↓写真で見ると、こんな感じです
 女房装束1.png
 色合いがとても美しいですね…それにしても、重たそうです…
・小袿(こうちぎ)に袴(はかま)
…普段着(準正装)
 袴をつけて、着物を重ね着した上に着る、ちょっと小さいサイズの上着が小袿
 
ついでに、庶民の服装も簡単に見ておきましょう。
庶民の男子は、水干(すいかん)・直垂(ひたたれ)、
庶民の女子は、小袖(こそで)などを着用したようです。

②食
比較的簡素で、1日2食が基準です。
調理方法は焼く・蒸す・煮るくらいしかなく、油は使用しません(揚げ物が存在しないのですよ…淋しい…)。
また、仏教の影響から、動物の殺生がよろしくないとされ、獣肉は基本的には食さなかったようです。
4本足ではない鳥とか魚はオッケーだったそうです。

③住
寝殿造(しんでんづくり)という建築様式を用いた大邸宅に居住します。
↓復元模型で見ると、こんな感じです。
Miniature_Model_of_HigashiSanjoDono.jpg
①の寝殿(しんでん)という建物を中心に、
東西に対屋(たいのや)という建物が設けられ(④東対(ひがしのたい)など)、
それらが⑦渡殿(わたどの)という廊下でつながっています。
対屋からのびる⑧透廊(すきろう)の先には、⑨釣殿(つりどの)がつくられ、
南側につくられた池を臨むことができる、というわけです。
いやぁ~、プール付きのとんでもない豪邸ですよ、これ!
まぁプールといっても泳ぐわけではありません、船を浮かべたりして遊ぶのです。
優雅ですな~…

寝殿造では、皮をはいで削っただけで、塗料などを塗っていない木を柱として用います。
これを白木造(しらきづくり)といいます。
また、床は板床(いたゆか)と呼ばれるフローリングなので、
畳や円座(わろうだ、または、えんざ)と呼ばれる座布団みたいなものを敷いて座ります。
また、それぞれの部屋はかなり広いなので、空間を区切ったり、目隠しをするために、
襖(ふすま、障子の1種)や屛風(びょうぶ)を部屋の仕切りとして使用したようです。

いやぁ~、ほんとゴージャスな家ですよね…
冬はめっちゃ寒そうですけどね……(笑)

ちなみに、貴族の多くは平安京の左京に居住します。
なぜ右京ではないのかは、794年のゴロ合わせで復習してくださいね。

④その他
●成人式
男女ども、だいたい10~15歳で成年式を受けます
・男子:元服(げんぷく)
…長く伸ばした髪でマゲを結い、冠をつけます
 以降、官職をもらって朝廷につかえることになります
・女子:裳着(もぎ)
…女房装束に裳(も)というパーツをつけます
 ↓写真で見ると、裳はこんな感じです
 女房装束2.jpg

とてもとても長くなってしまいました…すいません(汗)
最後に解答を載せておきましょう。

平安8解答.jpg



次回は国風文化の2回目、宗教・美術、そして貴族の生活Ⅱをまとめていきます。

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画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%9D%A1%E9%99%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E9%95%B7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B8%89%E6%9D%A1%E6%AE%BF
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平安時代(7) [まとめプリント]

今日は、藤原北家(ふじわらほっけ)による政治の3回目、
藤原道長(ふじわらのみちなが)・藤原頼通(ふじわらのよりみち)親子の時代を取り上げます。



摂関政治(せっかんせいじ)とは、摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)が引き続いて任命され、
政権の最高の座にあった10世紀後半から11世紀ごろにかけての政治を指します。

天皇が幼少の時に置かれるのが摂政、
天皇が成人してから置かれるのが関白です。

安和の変ののち、摂政・関白は常置(じょうち、常に置かれること)となり、
藤原北家のなかでもとくに、藤原忠平(ふじわらのただひら)の子孫から任命されることになります。
摂政・関白を排出するこの家柄を、摂関家(せっかんけ)と呼びます。

摂関家は、鎌倉時代になると、
近衛(このえ)・鷹司(たかつかさ)・一条(いちじょう)・二条(にじょう)・九条(くじょう)に分かれます。
まとめて五摂家(ごせっけ)といいます。
これは、ニ(二条)ク(九条)イ(一条)タ(鷹司)コ(近衛)、「憎いタコ」でパパッと覚えてしまいましょう!

ちなみに、五摂家の姓は、みーんな藤原ですよ!
近衛とか鷹司というのは、それぞれの家がある地名などからとった、名字なのです。
鎌倉時代には、姓よりも名字を名乗るようになるため、
藤原を姓とする摂関家は、近衛・鷹司・一条・二条・九条の名字を名乗る五摂家に分かれた、
というワケです。
姓と名字の違いについては、飛鳥時代(5)で復習してくださいね!

さて、摂政・関白に任命されると、一体どうなるのでしょうか。

まず、「一の人(いちのひと)」とか、「殿下(でんか、または、てんが)」という敬称で呼ばれます。
また、藤原氏の「氏の長者(うじのちょうじゃ)」も兼ねることになります。
「氏の長者」とは、氏のリーダーのことで、
氏寺(うじでら、藤原氏の場合は興福寺(こうふくじ))や、
氏社(うじしゃ、氏神(うじがみ)を祀る神社のこと、藤原氏の場合は春日大社(かすがたいしゃ))、
大学別曹(だいがくべっそう、藤原氏の場合は勧学院(かんがくいん))の管理のほか、
一族の官位推挙(かんいすいきょ、誰をどの官職や位階に推挙するか)にあたります。

そう、摂政・関白に任命されると、それはそれはとんでもない権力を手にすることになるのです!!

*   *   *

では、ちょっとギュウギュウ詰めで見にくいとは思いますが、
プリントを使って摂関政治をまとめていきましょう!

このプリント、黒字を全部覚える必要はありませんからね!
空欄のところをしっかり覚えてください!!

平安7.jpg

安和の変で他氏排斥が完了し、藤原北家の地位は不動のものとなります。
とはいえ、内部では摂政・関白の地位をめぐるゴタゴタが起きています。
系図を使って、2例見ておきましょう。

平安7-2.jpg

摂関家のゴタゴタ、1例目(上の系図の赤い部分)は、
兄の藤原兼通(ふじわらのかねみち)と、弟の藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の争いです。

藤原兼通は、息子が源高明(みなもとのたかあきら)の娘と結婚しているということもあり、
藤原兼家よりも、出世が遅れていました。
弟に先を越されるだなんて、お兄ちゃんとしてはやっぱり焦りますよね…

そんななか、円融天皇(えんゆうてんのう)の摂政をつとめる藤原伊尹(ふじわらのこれまさ)が、
危篤(きとく)に陥(おちい)ります。
すると、藤原兼通と藤原兼家は、その座をめぐって争うようになるのです。
といっても、そもそもたいして出世できていない藤原兼通は、弟に勝てそうにありません。

そこで!
藤原兼通は奥の手を使うのです!!

あるとき藤原兼通は、円融天皇に1枚のメモを見せます。
メモには、「将来、摂政・関白になることがあれば、必ず兄弟の順を守るように」、とあります。
これを書いたのは、藤原兼通の妹である藤原安子(ふじわらのあんし、または、ふじわらのやすこ)です。
実はこの女性、円融天皇の亡きお母さんなのです!

結果、円融天皇は、母の遺言(ゆいごん)に従わざるを得ず、
藤原兼通は見事、関白に任命されるのです!!(円融天皇はこの年に成人)

いや~、来たる日に備えて、妹にこんなメモを書かせていただなんて…
藤原兼通、やりますな!

ちなみに、弟の藤原兼家は、のちのち一条天皇(いちじょうてんのう)の摂政に就任しています。
なお、藤原兼家といえば、奥さんが有名です。
『蜻蛉日記(かげろうにっき)』の作者、藤原道綱(ふじわらのみちつな)の母なのです!
また、国風文化(こくふうぶんか)で紹介しますね。

摂関家のゴタゴタ、2例目(上の系図の青い部分)は、
叔父の藤原道長と、甥っ子の藤原伊周(ふじわらのこれちか)の争いです。
これは、1019年のゴロ合わせに詳しく書きましたので、そちらをご覧ください。

2人の争いは、藤原道長の勝利に終わり、彼は内覧(ないらん)という役職に就任します。
内覧とは、摂政・関白と同じような職務を担う、関白に準ずるものです。
基本、摂政・関白に任命された者が、これを兼ねるのですが、
このとき藤原道長は関白には就かず、左大臣のまま内覧になっています。
令外官(りょうげのかん)である関白になるより、
まずは左大臣として、太政官を盤石(ばんじゃく)なものにしたかったようです。

このあと藤原道長は、外戚関係(がいせきかんけい)を築くべく、
娘たちを天皇(または皇太子)と結婚させまくります。
ここでは簡単に述べるにとどめますので、詳しくは1016年のゴロ合わせをご覧ください。

平安7-3.jpg

まず最初に、長女の藤原彰子(ふじわらのしょうし、または、ふじわらのあきこ)を、
一条天皇の中宮(ちゅうぐう)とします。

次に、次女の藤原妍子(ふじわらのけんし、または、ふじわらのきよこ)を、
三条天皇(さんじょうてんのう)の中宮とします。

三条天皇にかわって、後一条天皇(ごいちじょうてんのう)が即位すると、
藤原道長はついに摂政に就任します。
そうです、藤原道長にとって後一条天皇は、娘の藤原彰子が産んだ、かわいいかわいい孫です。
こうして藤原道長は、外戚関係を利用して絶大な権力を手にするのです!

とはいえ、すぐに息子の藤原頼通にその座を譲り、自らは太政大臣に就任します。
摂政・関白の座は、俺の子孫が継ぐのだ!という、まわりへのアピールでしょうね…

さらに藤原道長は、三女の藤原威子(ふじわらのいし、または、ふじわらのたけこ)を、
後一条天皇(ごいちじょうてんのう)の中宮とします。
このとき詠(よ)んだのが、あの有名な
「此(こ)の世をば 我が世とぞ思ふ 望月(もちづき)の かけたることも 無しと思へば」という和歌です。
出典は、藤原実資(ふじわらのさねすけ)の日記である『小右記(しょうゆうき)』です。

さらにさらに藤原道長は、六女の藤原嬉子(ふじわらのきし、または、ふじわらのよしこ)を、
敦良親王(あつながしんのう、のちの後朱雀天皇(ごすざくてんのう)に嫁がせます。

後一条天皇も、後朱雀天皇も、藤原彰子が産んだ子です。
つまり、藤原威子と藤原嬉子は、お姉ちゃんが産んだ甥っ子と結婚したということになるのです。

ハイ、すごくややこしくなってきたので、藤原彰子目線で登場人物を並べてみましょう。

平安7-1.jpg

うわぁ~…サザエさん家どころではない、複雑で入り組んだ家庭環境ですね…
これをやってしまう藤原道長、すごいわ……

後朱雀天皇にかわって即位するのは、藤原嬉子が産んだ後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)です。
藤原頼通は、彼に1人娘である藤原寛子(ふじわらのかんし、または、ふじわらのひろこ)を嫁がせますが、
2人の間に子どもが生まれることはありませんでした。

結果、次に即位するのは、藤原北家を外戚としない後三条天皇(ごさんじょうてんのう)です。
藤原北家の全盛期は、ここで終わることになるのです。

刀伊の入寇(といのにゅうこう)については、1019年のゴロ合わせで確認しておいてくださいね!

最後に、解答を載せておきましょう。

平安7解答.jpg



次回から2回にわたって、国風文化をまとめていきます。

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