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901年 菅原道真が左遷される [年号のゴロ合わせ]

前回は、宇多天皇の信頼あつい菅原道真が、遣唐使派遣の停止を建議する様子を取り上げました。
ところが今回、菅原道真は左遷(させん)されてしまいます…

ちなみに、左遷の意味は分かっていますね?
そのときの身分よりも、低い身分に落とされることですよ!
よく出てくる用語なので、しっかり理解しておいてください。



897年、宇多天皇は、息子の醍醐天皇(だいごてんのう)に譲位します。
その際、くれぐれも菅原道真を引き続き重用するようにと醍醐天皇に伝え、
自身は仏教を深く信仰する日々を送ります。

醍醐天皇のもと、藤原時平は左大臣に、そして菅原道真は右大臣になります。
宇多上皇の猛烈なプッシュもあったのでしょう、
学者が右大臣になるなんて、吉備真備以来の大出世です。

この大出世が人々のねたみを買ってしまったのか、
やがて次のような黒いウワサが流れるようになります。

菅原道真は、醍醐天皇を天皇の座から引きずり下ろし、
斉世親王(ときよしんのう)を即位させようとしている。

斉世親王というのは醍醐天皇の弟で、菅原道真にとっては娘の結婚相手です。
つまり、菅原道真は、醍醐天皇にかわって娘の旦那を天皇にしようとしている、
というウワサが朝廷に広がってしまったのです。

おそらくウワサの発信源は、菅原道真の排斥をねらう藤原時平でしょう。
教科書などには、「藤原時平の讒言(ざんげん)によって菅原道真は左遷された」なんて書かれていますね。
讒言とは、その人の悪口を、ウソやデマをふんだんに盛り込んで、目上の人にチクることです。
ちなみに、「讒」はとてつもなくややこしい漢字ですが、
のちのち讒謗律(ざんぼうりつ)という用語が登場するので、書けるようにならなければなりません…
よくもまぁこんな画数の多い漢字を選んでくれたなと怒りたくなりますね…

この黒いウワサを、若い醍醐天皇は事実にちがいないと受けとめ、
菅原道真を大宰権帥(だざいごんのそち、または、だざいごんのそつ)に左遷してしまいます。

さて、大宰権帥とは何か分かりますか?

飛鳥時代(8)で登場した四等官制を思い出してください。
大宰府のナンバーワンは、大宰帥(だざいのそち、または、だざいのそつ)です。
大宰権帥は、この大宰帥に「権」の文字が入り込んだものです。
「権」の文字には「権(かり)」という意味があり、
律令が定める定員をこえて任じられた官職などに、「権(ごん)」の文字がつけられます。
つまり、大宰権帥は大宰帥に次ぐ役職、大宰府におけるナンバーツーなのです。
といっても、中央でばりばり働いていた菅原道真にとって、この人事は完全なる左遷です。

これを知った宇多法皇(上皇が出家すると法皇(ほうおう)となります、宇多法皇はこのころ出家済み)は、
すぐさま左遷を撤回するよう醍醐天皇を説得しようとしますが、
醍醐天皇から面会を拒否されてしまいます。

醍醐天皇にとって、菅原道真をプッシュするお父さんはうっとおしい存在だったのかもしれません。
醍醐天皇の宇多法皇に対する反発心が、菅原道真の左遷を決定的にした、とも考えられます。

結局、菅原道真の左遷はくつがえされることはなく、
さらに4人の息子たちにも流罪が言い渡されてしまいます。

*   *   *

901年、菅原道真は大宰府へと向かいます。
平安京を離れる際に詠んだのが、有名な次の和歌です。

東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ
(「春な忘れそ」の部分を「春を忘るな」とする書物もあります)

春になって東の風が吹いたなら、梅の香りを私のもとまで届けておくれ。
主人がいないからといって、春を忘れてはいけないよ。

という意味です。
梅を愛する菅原道真が、自宅の庭にあった梅の花との別れを惜しんで詠んだものです。

どうやらその梅も菅原道真のことを愛していたようで、
一晩のうちに、菅原道真が住む九州の屋敷の庭まで飛んできた、
なんていう飛梅(とびうめ)伝説ものこっています。

*   *   *

903年、菅原道真は平安京に戻ることを許されないまま、大宰府で亡くなります。
藤原時平としては、ライバルが完全にいなくなってバンバンザイです。
左大臣として、これからますますバリバリ働こう!ってなもんです。

ところが…

6年後、藤原時平は、39歳の若さでこの世を去ってしまいます。

また913年には、源光(みなもとのひかる)という人物が、狩りの最中に泥沼へ落ちて溺死します。
彼は藤原時平と手を組んで菅原道真を排斥し、
菅原道真にかわって右大臣に就任した人物だったのです。
ちなみに、彼の遺体は泥沼のなかから見つかることはありませんでした…

なんだか不気味ですよね…
菅原道真を左遷させた張本人が、次々と亡くなるなんて…

しかも、これだけでは終わりません…

923年、醍醐天皇の息子である皇太子が病死します。
彼の母親は、藤原時平の妹です。
つまり、藤原時平の甥っ子にあたる人物が、21歳の若さで亡くなるのです。

かわって、亡き皇太子の息子(醍醐天皇の孫)を皇太子(皇太孫)としますが、
2年後、わずか5歳でこの世を去ってしまいます。

怖い…
怖いですよね……
絶対なんかありますよね、コレ………

極めつけは930年。
都で干ばつが続いていたため、朝廷では雨乞い(あまごい)をおこなうかどうかの会議をしていました。
すると、突然黒い雲が平安京をおおいつくします。

そして!
次の瞬間!!
朝廷に雷が落ちたのです!!!

顔を焼かれる者や胸を焼かれる者がおり、朝廷ではたくさんの死傷者が出ます。
さらに、それを目撃した醍醐天皇は体調を崩し、3ヶ月後に亡くなってしまうのです。

京都にある北野天満宮(きたのてんまんぐう)が所蔵する、
国宝の「北野天神縁起絵巻(きたのてんじんえんぎえまき)」には、
朝廷に雷が落ちたシーンが次のように描かれています。

bbb.jpg

黒い雲のなかに、稲光をまとった赤い鬼が描かれているのが分かりますね。

これは一体誰なのでしょうか…

そう、菅原道真です。

菅原道真は無実だったのに大宰府へ左遷されて可哀想!
きっとこの世に恨(うら)みをいっぱいのこして死んだから、
怨霊(おんりょう)になって人を呪い殺したり、雷を落としたりしているに違いない!
と人々は考えたわけです。

朝廷もおそれおののき、菅原道真の罪を赦(ゆる)して高い位を与えたり、
流罪となっていた彼の子どもたちを平安京に呼び戻したりします。

それでも怖いよね、怖い。

そこで、京都には北野天満宮(明治時代から一時期、北野神社と改称)を、
菅原道真の墓所には太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう、漢字注意!「太」宰府ですからね)を建て、
菅原道真を「天神様(てんじんさま)」として祀(まつ)り、祟(たた)りを鎮めようとします。

このように、人々を脅(おびや)かす怨霊をおそれ、
それをお祀りすることで怨霊を慰めようとする信仰を、御霊信仰(ごりょうしんこう)といいます。
なかでも菅原道真をお祀りすることは、とくに天神信仰(てんじんしんこう)と呼びます。

901.jpg

また、怨霊を慰めるためにおこなう法要やお祭りを、御霊会(ごりょうえ)といいます。
日本三大祭りの1つである、大阪の天神祭(てんじんまつり)も御霊会の1つです。
菅原道真が2月25日に亡くなったことから、
月命日にあたる7月25日を中心に、毎年大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)でおこなわれています。
花火が有名ですが、れっきとした菅原道真を慰める御霊会なんですよ。
ただの花火大会ではありません。

現在では、菅原道真が怨霊とおそれられたことはすっかり忘れ去られ、
彼がすぐれた学者であったことから「学問の神さま」として信仰されるようになっています。
みなさんも受験の際にはお世話になることがあるかもしれませんね!

それでは、今日のゴロ合わせ。

901年.jpg

ちなみに、901年は昌泰(しょうたい)四年なので、菅原道真が左遷された事件を昌泰の変と呼びます。
最近は教科書にこの名称が載らなくなったので、覚える必要はありません。
でもせっかくなので、イラストでは「招待状」とかけてみました。

なお、901年は昌泰の変やら色々あったので、夏に延喜(えんぎ)元年に改元されます。



次回は、菅原道真の左遷後におこなわれる、醍醐天皇による延喜の治(えんぎのち)を取り上げます。

画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B6%BC%E6%AE%BF%E8%90%BD%E9%9B%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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