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887年 阿衡の紛議が起こる [年号のゴロ合わせ]

前回は、藤原基経が光孝天皇から関白に任命される様子を見ていきました。
今日は、その光孝天皇の死後に起こる、阿衡の紛議(あこうのふんぎ)を取り上げます。



887年、光孝天皇が亡くなり、かわって息子の宇多天皇(うだてんのう)が即位します。

即位する前、宇多天皇は源定省(みなもとのさだみ)と名乗っていました。
父である光孝天皇が、子どもたちに源の姓を与え、皇族を離れさせたためです。
これは、「私は自分の子どもを次の天皇にしようだなんて思っていませんよ」というアピールです。
おそらく、藤原高子や陽成天皇などに気をつかったのでしょうね…

このように、皇族がその身分を離れ、姓を賜(たまわ)って臣下の籍に降(お)りることを、
臣籍降下(しんせきこうか)といいます。
これについては、またのちのち詳しくお話ししますね。

ちなみに、まもなく眞子さまがご婚約をなさるとのことですが、
現代では、皇族の女性が結婚してその身分を離れることを、皇籍離脱(こうせきりだつ)といいます。

源定省は、光孝天皇の危篤(きとく)にともない皇族に復帰し、皇太子となります。
そして、皇太子となったその日のうちに光孝天皇がこの世を去り、彼は宇多天皇となるのです。
臣籍降下した人物が天皇になるのは、初めてのことです。

やはり我が子を天皇にしたい、という父としての光孝天皇の願いと、
藤原高子の子(陽成天皇の弟)を天皇にしたくない、という藤原基経の意志がはたらいてのことでしょう。
それにしても、ほんっとに仲の悪い兄妹ですこと…

*   *   *

宇多天皇は、光孝天皇の時代と同じように、藤原基経に天皇の補佐をしてもらおうと考えます。
宇多天皇はすでに成人しているので、摂政はおけません。
そこで、関白に任命する勅書(ちょくしょ、天皇の手紙のこと)を藤原基経のもとへ届けます。
藤原基経にとって、待ちに待った勅書です。
ところが、藤原基経はこれを辞退するのです。

藤原基経は、引き続き関白をやりたいはずですよね?
すごくやりたいはずですよね??
それなのに、なぜ辞退したのかというと…

きまりだからです!!

天皇からエラい役職に任命されると、
「イエイエ、私がそんな役職に就くだなんてとんでもありません!」といったん断らなければならないのです。
すると、天皇から再び「イヤイヤ、この仕事を任せられるのはお前だけだから!受けてくれ!!」と手紙が来ます。
そこでようやく「そうですか…そこまでおっしゃるのならば…お受けいたします!」と、なるのです。

887.jpg

めんどくさっ!めっちゃめんどくさっ!!(笑)
とりあえずね、貴族の社会ではね、どんなにやりたい仕事でもね、飛びついてはいかんのですよ!
それが貴族の美学とゆーやつなのですよ!!

ということで、いったん関白を辞退した藤原基経のもとに、2度目の勅書が届きます。
ヤッター!これで関白になれるゾー!っと思って勅書を読むと…
なんと、そこに「関白」の文字がないのです!
かわって「宜(よろ)しく阿衡(あこう)の任(にん)をもって卿(きょう)の任(にん)とせよ」とあるのです!

アコウ?
なにそれ??
ですよね。

阿衡とは、殷(いん)の時代の役職です。
殷ですよ!殷!!
中国で一番古い王朝です!!!
(中国の王朝の順番については、弥生時代(4)で確認しておいてください)
しかも、すごく地位の高い役職ではあるのですが、とくに仕事はない、というものなのです。
まぁいわゆる名誉職ってやつですね。

これに怒った藤原基経は、仕事を放棄して自宅に引きこもってしまいます。
そして、この勅書の文を考えた橘広相(たちばなのひろみ)という人物を罷免するよう訴えます。

いままで関白としてバリバリ働いてきた藤原基経のストライキによって、
政治はまったく動かなくなってしまいます。
困り果てた宇多天皇は、翌888年にやむなく2通目の勅書を取り消し、橘広相を罷免します。
しかし、それでも怒りのおさまらない藤原基経は、さらに橘広相を流罪にするよう訴えるのです。

怖すぎるよ、藤原基経……

いくらなんでもそれはやりすぎだろうと考えた秀才と名高い菅原道真(すがわらのみちざね)が、
藤原基経をなだめることになんとか成功し、事態はようやく収束します。
このあと藤原基経は、関白として宇多天皇を補佐してゆくのです。

以上が、阿衡の紛議です。
または阿衡事件(あこうじけん)ともよばれます。

それにしも、藤原基経はなぜここまでゴネたのでしょうか…

実は、橘広相の娘は宇多天皇と結婚していて、男の子を産んでいるのです。
もしその子が天皇になったら…?
そう、橘広相は天皇の外戚となるわけです。
藤原基経はそれを阻止するために、ゴネたのかもしれません。
果たして橘広相に、藤原基経の権力をそいでやろうなんて意図はあったのでしょうかね…

さらに阿衡の紛議は、橘広相の排斥に成功しただけでなく、
藤原基経は宇多天皇を思い通りに動かせるんだ、ということも世間に知らしめたのです。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

887年.jpg
 ↑藤原基経が持っているのはワラ人形ですよ、念のため(笑)

891年に藤原基経が亡くなると、宇多天皇は次の関白を任命せず、自ら政治をおこないます。
関白という存在が、よっぽど面倒だったのでしょうね…(笑)
かわって宇多天皇は、さきほど登場した菅原道真を重用するようになるのです。



次回は、その菅原道真が建議した、遣唐使派遣の停止について取り上げます。
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