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729年 長屋王の変がおこる [年号のゴロ合わせ]

奈良時代の勉強で大変なところは、天皇のほかに実権を握る人物を覚えなければならないところです。

藤原不比等→長屋王→藤原四子→橘諸兄→藤原仲麻呂→道鏡→藤原百川

こんな風に実権を握る人物がころころ変わるんですね…
受験生にとっちゃホント迷惑な話です…
高校生のころ、菅野祐孝さんが書かれた日本史の参考書のなかにこの覚え方が載っていて、
とても助かった記憶があります。

「ひどい(藤原不比等)長屋(長屋王)で4人の子ども(藤原四子)、
 モ(橘諸兄)ナカ(藤原仲麻呂)どう(道鏡)?100円(藤原百川)で…」

す、すばらしい…
ぜひみなさんもこれで覚えてしまいましょう!



さて、今日は藤原不比等の次に実権を握った人物、長屋王(ながやおう)について見ていきます。

中臣鎌足の息子である藤原不比等には、4人の息子がいました。
まとめて藤原四子(しし・よんし)とか藤原四兄弟(しきょうだい・よんきょうだい)などと呼びます。

長男 藤原武智麻呂(むちまろ)…藤原南家(なんけ)の祖
次男 藤原房前(ふささき) ………藤原北家(ほっけ)の祖
三男 藤原宇合(うまかい) ………藤原式家(しきけ)の祖
四男 藤原麻呂(まろ)……………藤原京家(きょうけ)の祖

武智麻呂の家は房前の家の南にあり、房前の家は武智麻呂の家の北にあったため、
それぞれの子孫をまとめて藤原南家・藤原北家と呼びます。
宇合は式部省(しきぶしょう)の役人であったことからその子孫を式家、
麻呂は京職(きょうしき)の役人であったたことからその子孫を京家と呼びます。

藤原不比等が亡くなったとき、この藤原四子は年齢的にも身分的にもまだまだ青かったようで、
(年齢は長屋王とあんまり変わらないようですが…)
結果として天武天皇の孫である長屋王が実権を握ることとなりました。

長屋王は721年に右大臣となり、さらに724年には聖武天皇の即位と同時に左大臣となりました。
ぐいぐい出世していきます。
これは藤原四子としたらおもしろくないわけですよ。
自分たちも不比等お父さんみたいに権力を握りたいのに、長屋王が邪魔で仕方ない。

するとどうでしょう…

長屋王に謀叛(むほん)の意図がある、すなわち天皇を裏切ろうとしている、というウワサがたつのです。
そこで、藤原宇合はすかさず兵を率いて長屋王の家を取り囲みます。
長屋王は、奥さんである吉備内親王(きびないしんのう)らとともに毒をあおいで自殺してしまいました。

これが729年に起こった長屋王の変です。
長屋王の死後、実権を握ったのはもちろん藤原四子です。

しかし…

しかしですよ…

737年、権力の絶頂にあった藤原四子たちは天然痘(てんねんとう)という病気にかかり、
バタバタバタバタと亡くなってしまうのです。

え?
4人もいるのに??
全員???

人々は言いました、「これは長屋王の祟(たた)りに違いない…」と。

ちなみに、長屋王の邸宅跡は1986年に平城宮跡のすぐ近くで発見されました。
奈良時代の権力者の生活を伝える重要な遺跡であり、
また4万点もの木簡が出土したことから保存を望む声が多く聞かれましたが、
残念ながら遺跡の上に「そごう」というデパートがつくられました。

遺跡を保存するのか、現代人にとって便利なものを作るのか、難しいところですね。

さて、その「そごう」。

約10年後に経営破綻してしまい、長屋王の邸宅跡につくられた「奈良そごう」も閉店してしまったのです。

人々は言いました、「これは長屋王の祟りに違いない…」と。

長屋王の呪い、こわすぎる…

729.jpg

「そごう」の経営破綻が長屋王の祟りによるものかどうかは分かりませんが、
「奈良そごう」の跡地は、現在「イトーヨーカドー奈良店」となっています。
かたすみにここが「長屋王の邸宅跡」であることを伝える説明板がありますし、
店舗の裏手には長屋王をお祀(まつ)りした祠(ほこら)もありますので、
「イトーヨーカドー奈良店」へ買い物に行かれる際にはぜひ一度ご確認ください。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

729年.jpg



次回は、聖武天皇を震撼させた藤原広嗣の乱を取りあげます。
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