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1016年 藤原道長が摂政になる [年号のゴロ合わせ]

969年の安和の変で他氏排斥を完了させた藤原北家は、向かうところ敵なしです。
今日は、なかでもとくに栄華を極めた藤原道長(ふじわらのみちなが)を取り上げます。



藤原道長は、どのようにして栄華を極めたのでしょうか?

答えは、外戚関係の利用です。
彼は、4人の娘を天皇や皇太子と結婚させ、およそ30年にわたって権勢をふるったのです。
ややこしいので、最初に系図を載せておきましょう。

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いやー…これはややこしいわ…
立体交差しまくってますもんね…
心が折れそうになりますが、頑張って4人の娘の結婚を順番に見ていきましょう!

1人目は、藤原彰子(ふじわらのしょうし、または、ふじわらのあきこ)です。
藤原道長の長女として生まれた彼女は、
999年、12歳のときに、8歳年上の一条天皇(いちじょうてんのう)と結婚します。

天皇の正式な奥さんを皇后(こうごう)、または中宮(ちゅうぐう)といいます。
藤原道長としては、かわいい娘をぜひとも皇后にしたいわけですが、
このころ、一条天皇にはすでに皇后がいたのです!
藤原道隆(ふじわらのみちたか)の娘である、藤原定子(ふじわらのていし、または、ふじわらのさだこ)です。
藤原道長にとっては、お兄ちゃんの娘、つまり姪っ子(めいっこ)にあたる女性です。
上の系図で確認しておいてください。

皇后は1人だけと決まっているので、藤原彰子は皇后にはなれません。
さぁ!藤原道長はどうするのでしょうか…

ここで皇后と中宮の関係に触れるため、一条天皇と藤原定子の結婚に話をさかのぼります。
ざっくりとしか述べませんが、とてもややこしい内容なので、
ふーん…と流し読みしてもらったら結構です。

*   *   *

藤原定子が一条天皇と結婚したとき、
円融上皇(えんゆうじょうこう)の奥さんが、まだ皇后を名乗っていました。
本来、上皇の奥さんは皇太后(こうたいごう)と名乗るものなのですが、
そのころ一条天皇のお母さん(この人も円融上皇の奥さん)が皇太后であったため、
それを名乗ることができず、ながらく皇后のままだったのです。

どんな形であれ、皇后は1人だけです。
すでに皇后を名乗る者がいる以上、藤原定子は皇后にはなれません。
それがルールなのです。

しかし!
当時、藤原北家のなかでもとくに権力をにぎっていた藤原道隆が、
「いま皇后を名乗ってるのって、上皇の奥さんじゃん!」というゴモットモな突っ込みを入れたのです!!
そして藤原道隆は、皇后から、その別名である中宮を切り離し、
円融上皇の奥さんはそのまま皇后として残しつつ、
娘である藤原定子を2人目の皇后、すなわち中宮としてねじこんだのです!!!

皇后は1人だけ、というルールだったのに、
皇后が、皇后と中宮の2人になってしまったのです!!

といっても、一条天皇の皇后は、藤原定子ただ1人です。
1人の天皇に対して皇后は1人だけ、というルールに改訂されたというわけです。

*   *   *

皇后と中宮の関係、なんとなく理解できましたか?
では、一条天皇と藤原彰子の結婚に話をもどしましょう。
ここからは、ふーん…ではなく、真面目にお読みください(笑)

先にも述べたように、藤原彰子が結婚しようとしたとき、
旦那さんとなる一条天皇には、すでに藤原定子という中宮がいました。
1人の天皇の対して皇后は1人だけ、というルールなので、
もちろん藤原彰子は、一条天皇の皇后にはなれません。

でもそんなこと、藤原道長が許すわけないのです!

藤原道長が目をつけたのは、一条天皇のお母さんです。
彼女はながらく皇太后を名乗っていたのですが、
このころ出家をしていて、すでに皇太后ではなくなっていたのです。

そこで藤原道長は、
これまで皇后を名乗っていた円融上皇の奥さんを皇太后とし、
これまで中宮を名乗っていた藤原定子を皇后にしたのです。
すると、中宮のポストが空きますよね?

そうなんです!
藤原道長は、藤原彰子を空いた中宮のポストにつけることで、一条天皇の皇后としたのです!!

ここに、1人の天皇に対して皇后が2人いる、という前代未聞の事態が起きたのです!
藤原道長、やりたいホーダイです!!

一条天皇とすれば、皇后が2人もいるなんてパニックですよね…

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ほどなく、藤原定子が難産のすえこの世を去り、
藤原彰子が、一条天皇にとってただ1人の皇后となります。

藤原彰子はながらく子どもに恵まれなかったのですが(この間、定子が産んだ長男を育てています)、
1008年に長男を、1009年に次男を産みます。
ついに、藤原道長が外戚になるチャンスがやって来たのです!

その後、一条天皇がこの世を去り、かわって三条天皇(さんじょうてんのう)が即位します。
藤原道長の次女である藤原妍子(ふじわらのけんし、または、ふじわらのきよこ)は、
皇太子だったころの三条天皇と結婚しており、旦那さんの即位にともない中宮となります。
藤原妍子を皇后としなかったこともあって、三条天皇と藤原道長との関係はよろしくなく、
ほどなく三条天皇は、目の病気を理由に譲位させられてしまいます。

1016年、三条天皇にかわって即位したのは、後一条天皇(ごいちじょうてんのう)です。
彼は、一条天皇と藤原彰子の間に生まれた長男です。
ついに藤原道長は、念願の外戚となったのです!
このとき後一条天皇は9歳だったため、大好きなおじいちゃんである藤原道長が摂政に任命されます。

藤原道長は、翌年には息子の藤原頼通(ふじわらのよりみち)に摂政を譲って後継者を明確にし、
自らは太政大臣となります(あくまで儀式に奉仕するためであって、ほどなく辞職)。
藤原道長は外戚として、また摂政の父親として、権力をふるい続けます。

1018年、後一条天皇は11歳となり、
藤原道長の三女である藤原威子(ふじわらのいし、または、ふじわらのたけこ)と結婚します。
そのときの様子を伝えるのが、あの有名な和歌をふくむ次の史料です。

(寛仁二(1018)年十月)十六日乙巳、今日、女御(にょうご)藤原威子を以(もっ)て、皇后に立つるの日なり。前(さきの)太政大臣(〔1   〕のこと)の第三の娘なり。一家に三后(さんごう、藤原彰子・妍子・威子のこと)を立つること、未(いま)だ曾(かっ)て有らず。(中略)太閤(たいこう、〔1   〕のこと)、下官(げかん、〔2   〕のこと)を招き呼びて云(いわ)く、「和歌を読まむと欲す。必ず和(わ)すべし」者(てえり)。答へて云く、「何(いずくん)ぞ和し奉(たてまつ)らざらむや」。又云ふ、「誇りたる歌になむ有る。但(ただ)し宿構(しゅくこう、前々から準備したもののこと)に非(あら)ず」者。「此(こ)の世をば我が世とぞ思ふ望月(もちづき)の かけたることも無しと思へば」。余(〔2   〕のこと)申して云く、「御歌優美なり。酬答(しゅうとう)に方(すべ)無し。満座只(ただ)この御歌を誦(じゅ)すべし」(中略)と。諸卿、余(〔2   〕のこと)の言に饗応(きょうおう)して数度吟詠(ぎんえい)す。太閤(〔1   〕のこと)和解して殊(ことさら)に和を責めず。(後略)  (出典〔2   〕『3   』、原漢文)

空欄にあてはまる語句は分かりましたか?

 1…藤原道長(太閤とは、前摂政または前関白のこと)
 2…藤原実資(ふじわらのさねすけ)
 3…小右記(しょうゆうき)

この史料は、藤原実資が記した『小右記』という日記の一部分です。
さきほどあげた系図を、もう1度見てください。

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藤原実資、いますね!
安和の変で登場した藤原実頼(ふじわらのさねより)の孫にあたる人物で、
このころ右大臣をつとめています。
藤原北家のなかでも、藤原実頼の子孫の家柄をとくに小野宮家(おののみやけ)と呼びます。
ということで、藤原実資は自らの日記のタイトルを、
「小」野宮家の「右」大臣の日「記」ということで、『小右記』としたようです。

では、内容をかいつまんで見てみましょう。

藤原威子が皇后(中宮)になる日のこと。
藤原道長は、藤原実資に「和歌を詠むので必ず返歌(へんか、返答の歌のこと)を詠むように」と言います。
それに対して藤原実資は、「どうして返歌を詠まないことがありましょうか」と反応します。
すると藤原道長は、「自慢の和歌なのだ。即興でつくったものであって、前々から準備していたものじゃない」と、
自分でハードルをあげちゃいます。

そして!
有名なあの歌を詠むのです!!

「此の世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも 無しと思へば」
この世はまるで私の世のようだ。満月に欠けるところのないように、なにも足りないものはないのだ。

ちょ…
ナニソレすごい自慢!
これにどう返せっちゅーんですか?
絶対無理でしょう…

そこで藤原実資は機転をきかせ、
「和歌がすばらしすぎて返歌を詠めません。なので、みんなでこの和歌を繰り返しましょう!」と言ったのです!
ナイス実資!!
他の人たちも彼の案に賛成し、「此の世をば…」とみんなで数回復唱したところ、
藤原道長は満足して、とくに返歌を求めることはなかった。

という内容です。

いやぁ~…こんな自慢マックスの和歌、披露されちゃぁ引きますよね…
しかもこのとき、藤原威子は20歳です。
その彼女が9歳も年下の甥っ子(おいっこ)と結婚するのです。
もう絶対まわりドン引きですよね…

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ところが藤原道長は、翌年には病に冒されるようになり、体はボロボロになってゆきます。
月は満月になると、あとは欠けていくものですからね…
このころから藤原道長は、法成寺(ほうじょうじ)という立派なお寺の造営に夢中になります。

しかし、藤原道長の気力はまだまだ衰えません!
1021年には、六女の藤原嬉子(ふじわらのきし、または、ふじわらのよしこ)を、
一条天皇と藤原彰子の間に生まれた次男(のちの後朱雀天皇(ごすざくてんのう))と結婚させるのです。
これまた、おばさんと甥っ子の結婚です。
やがて藤原嬉子は長男を出産しますが、その2日後にわずか19歳でこの世を去ってしまいます。

1028年、藤原道長は病に倒れ、12月4日に62年の生涯を閉じます。
法成寺に安置した大きな阿弥陀如来像の手と自らの手を糸で結び、念仏をとなえ、
ひたすら極楽浄土に生まれることを願っての最期だったようです。

後一条天皇の死後、藤原嬉子の旦那さんが即位して後朱雀天皇となり、
藤原嬉子の産んだ長男は、そのあとを受けて後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)となります。
後朱雀天皇と後冷泉天皇を補佐したのは、関白の藤原頼通です。
藤原頼通は、娘の藤原寛子(ふじわらのかんし、または、ふじわらのひろこ)を後冷泉天皇と結婚させますが、
男の子が生まれることはありませんでした。

結果、藤原北家を外戚としない後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が即位するのです。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

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次回は、刀伊の入寇(といのにゅうこう)を取り上げます。
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988年 尾張国郡司百姓等解が出される [年号のゴロ合わせ]

10世紀、朝廷は税制の大転換をはかります。
従来の郡司にかわって、国司に税の徴収を請け負わせることにしたのです。
その結果、国司はより強力に、より自由に、それぞれの国を統治できるようになってゆきます。

このあたりの詳しいことは、のちのちまとめプリントでお話ししようと思いますので、
ここではまず、「国司は10世紀にとてつもない力を得るようになる」、ということを覚えてください。



では、ここで問題。
国司に選ばれるのは、どんな人でしたか?

答えは、中央貴族です。
国司は、都(中央)に住んでいる貴族のなかから選ばれるんでしたよね。
そうだっけ…?という人は、飛鳥時代(8)のプリントを復習してください。
あわせて、国司の四等官が守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)であることも確認しておいてくださいね。

国司に任命されると、都をはなれ、任国(にんごく、国司として任命された国のことです)で生活します。
そして、任期(このころは4年)が来るまで、国衙(こくが)でその国の統治にあたります。
なかでも、守(かみ)レベルの国司を、受領(ずりょう)といいます。
はじめて任国に到着したときに、前任の国司から引き継ぐべきものを「受領」することが由来のようです。

本来、国司は任国で暮らすものですが、
なかには任国におもむかない国司もいたようです。
目代(もくだい)という代理人を任国に派遣し、自らは平安京で都会暮らしを続けるのです。
そりゃね~、平安京に比べればどの国だってたいてい田舎でしょうよ。
友達もいっぱい、遊ぶところもいっぱい、そんな都会で暮らす方がきっと楽しかったのでしょう。

このように、国司に任命されたのに、任国におもむかないことを遙任(ようにん)、
その国司自身を遙任国司(ようにんこくし)、とか、遙任といいます。
ちなみに、「遙」は、「遥」の旧字体です。
「遙」(はる)かカナタに目代を「任」命して派遣する、と覚えてください。

遙任国司が増えるなか、真面目に任国へおもむくのが受領です。
都にとどまる国司が多いのに、わざわざ田舎に行くわけですよ。
そうするとね、「こんな田舎に来たからにはガッポリもうけてやる!」って思っちゃうんでしょうね!
やがて強欲な受領が目立つようになります。
そんな受領を、教科書などでは「貪欲」(どんよく)なんて難しい言葉で表現しています。
大阪弁で言うと、「ガメツイ」です!

では、ガメツイ受領の代表格を2名、ご紹介しましょう。

*   *   *

1人目は、信濃国の受領であった藤原陳忠(ふじわらののぶただ)です。

藤原陳忠は、信濃守(しなののかみ)の任期を終え、都に帰ろうとしていました。
美濃国にさしかかる峠を進んでいると、彼の乗る馬が足を踏み外してしまい、
なんと藤原陳忠は、馬ごと深い谷へと転落してしまったのです!
家来たちが「死んだかな…」と、しばらく谷底をのぞいていると、
「かごに縄をつけて降ろしてくれ~!」という藤原陳忠の声。
どうやら生きてたみたいです。
そこで、家来たちは言われたとおりにし、頑張ってかごを引き上げてみると…

そこには藤原陳忠が乗っていた…のではなく!
ヒラタケというきのこが、てんこ盛りに載っていたのです!!

えぇぇぇ…なにこれ……きのこやん………と、家来たちドン引き。
すると、谷底から「もう一回かごを降ろしてくれ~!」の声。
家来たちは再び言われたとおりにし、頑張ってかごを引き上げてみると…

今度はちゃんと藤原陳忠が乗っていました!
手に大量のヒラタケをかかえた藤原陳忠が!!

えぇぇぇ…めっちゃきのこ持ってるやん……と、家来たち再びドン引き。
そんな家来たちに向かって、藤原陳忠はキリッと一言!

「受領ハ倒ル所ニ土ヲツカメ!」

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藤原陳忠は、谷底に落ちていく途中で木に引っかかったようです。
ほんとにそんな漫画みたいなことあるんですね…
で、ふとあたりを見渡してみると、なんと一面にヒラタケが生えているではないですか!
この「宝の山」をどうにかして手に入れようと、彼は先に述べたような行動をとったのです。

てゆーか、ガケの木に引っかかってるんですよ?
めっちゃ危機的状況じゃないですか!
早く助けてほしいじゃないですか!!
それなのに、おのれの身の安全の確保よりも、
この「宝の山」、すなわち「きのこの山」を絶対に持って帰る!という執念を優先させたわけです。

そう、受領はね…倒れてもタダじゃ起きてはいかんのです!
倒れたときに、そこにある土でもきのこでも、なんでもつかんで手に入れにゃぁいかんのです!!
それが、「受領ハ倒ル所ニ土ヲツカメ!」なのです。

いかに受領がガメツイか、よく分かるエピソードですね…
このエピソードの出典は分かりますか?
『今昔物語集』(こんじゃくものがたりしゅう)ですよ、お忘れなく!

それにしても、こんなことで教科書に名前が残ってしまうなんて…
なんだか恥ずかしいですね…

*   *   *

2人目は、尾張国の受領であった藤原元命(ふじわらのもとなが)です。

彼はあまりにもガメツイ受領であったため、任国にやって来て3年目の988年、
任国に住む郡司や百姓たちから訴えられてしまいます。
その訴状が、「尾張国郡司百姓等解」(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげ)です。
「尾張国郡司百姓等解文」(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげぶみ)と表記することもあります。

では、藤原元命がどれほどガメツイ受領であったのか、訴状を見てみましょう。
訴えは全部で31ヶ条ありますが、長いので一部分だけ紹介します。

〔1   〕国郡司百姓等解(げ)し申し、官裁(かんさい、太政官による決裁のこと)を請(こ)ふの事
 裁断(さいだん)せられむことを請ふ、当国の守(かみ)藤原朝臣(あそん)〔2   〕、三箇年の内に責め取る非法(ひほう)の〔3   〕、并(あわ)せて濫行(らんぎょう)横法(おうほう)三十一箇条の□□(愁状(しゅうじょう)カ)
一、裁断せられむことを請ふ、例挙(れいこ、定例の出挙のこと)の外に三箇年の収納、暗(そら)に以て加□(徴カ)せる正税四十三万千二百四十八束が息利(そくり)の十二万九千三百七十四束四把一分の事(中略)
一、裁定せられむことを請ふ、守〔2   〕朝臣、庁の務(まつりごと)無きに依(よ)りて、郡司百姓の愁(うれい)を通じ難(がた)き事(中略)
一、裁断せられむことを請ふ、守〔2   〕朝臣、京より下向(げこう)する度(たび)毎(ごと)に、有官(うかん、位をもち官職についている者のこと)・散位(さんに、位をもつが官職についていない者のこと)の従類、同じき不善の輩(ともがら)を引率(いんそつ)するの事(中略)
以前(さき)の条の事、憲法の貴きを知らむが為(ため)に言上すること件(くだん)の如(ごと)し。(中略)仍(より)て具(つぶ)さに三十一箇条の事状を勒(ろく)し、謹(つつし)みて解(げ)す。
 永延二年(988年)十一月八日 郡司百姓等  (出典「〔1   〕国解文」)

空欄にあてはまる語句は分かりましたか?
入試では、2行目にある「裁断せられむことを請ふ、当国の守…」の一文がよく出題されるので、
空欄はしっかり埋められるようにしておいてください。

 1…尾張
 2…元命(もとなが)
 3…官物(かんもつ、このころ租庸調制にかわって新しくもうけられた税のこと)

この訴状の内容を簡単に訳すと、次のようになります。

うちの国の受領である藤原元命が、この3年間に奪い取った非合法の官物と、彼のヒドい行動とについて、31ヶ条にまとめましたので、裁決をお願いします。
一(1条目)、定例の出挙のほか、43万1248束の稲と、12万9374束4把1分の利息が、こっそり余分にとりあげられました。
一(26条目)、藤原元命は、都にいるだとか、物忌(ものいみ、ナニかに取り憑(つ)かれたりして、屋内で謹慎すること)だとか、色んな理由をつけて国衙で政務をとらないので、郡司や百姓たちの嘆願が伝わりません。
一(30条目)、藤原元命は、都から帰ってくるたびに、よからぬヤツをいろいろ連れてきます。
以上、国家の法は貴く、またそれを破った者はきちんと処分される、ということを知るために言上しました。31ヶ条にわたって詳しく記し、謹んで申し上げます。

いや~…3ヶ条見ただけでもコレですよ。
あまりにヒドイ、訴えられて当然です。

結果、朝廷は郡司や百姓たちの訴えを聞き入れ、翌年、藤原元命を解任します。
ほんとザマァァ!!ですね。

藤原元命については訴状が残っていたため、このように詳しく知ることができますが、
きっと他の国にも、こんなガメツイ受領がいたのでしょうね…おそろしや……

ちなみに「解」(げ)とは、下級官庁から上級官庁へ申し上げる文書のことです。
逆に、上級官庁から下級官庁へ下される命令は、「符」(ふ)といいます。

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たとえば、902年の語呂合わせで紹介した延喜の荘園整理令は、
「太政官符す」という文で始まっていますよね。
延喜の荘園整理令は、太政官から下された「符」なのです。
これを、太政官符(だいじょうかんぷ、または、だじょうかんぷ)といいます。

*   *   *

最後に、まとめておきましょう。

10世紀、国司が徴税を請け負うようになり、ガメツイ受領があらわれます。
代表者は次の2名です。
 ・信濃国-藤原陳忠(『今昔物語集』)
 ・尾張国-藤原元命(「尾張国郡司百姓等解」)
しっかりと区別して覚えておいてください。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

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988年は重要な年号ではありませんが、
「国司は10世紀にとてつもない力を得るようになる」ことを覚えてもらうために、
ゴロ合わせを作っておきました。

余談ですが、昔の日本には、下の名前を音読みする習慣がありました。
たとえば、源義経なら「ギケイ」、織田信長なら「シンチョウ」です。
彼らにまつわる書物を、『義経記』(ぎけいき)、『信長公記』(しんちょうこうき)と呼ぶのはそれゆえです。

というわけで、藤原元命を音読みすると「ゲンメイ」です。
尾張国郡司百姓等解は、「オワリ」・「ゲンメイ」で国名と受領の名前を覚えてくださいね!



次回は、藤原道長を取り上げます。
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969年 安和の変が起こる [年号のゴロ合わせ]

藤原北家による他氏排斥事件のラストは、安和の変(あんなのへん)です。
安和2年(969年)に起きた、なんともしっくりこない事件です。



村上天皇が亡くなると、かわって息子の冷泉天皇(れいぜいてんのう)が即位します。
冷泉天皇は、なにやら精神的な病を抱えていたようで、
藤原実頼(ふじわらのさねより)が関白として補佐にあたることになります。
前回触れましたが、藤原実頼は村上天皇の時代に権力を握っていた人物です。

この藤原実頼、冷泉天皇とはどのような関係なのでしょうか。

冷泉天皇のお母さんは、藤原安子(ふじわらのあんし、または、ふじわらのやすこ)です。
彼女は、藤原実頼の弟である藤原師輔(ふじわらのもろすけ)の娘です。
つまり、藤原実頼にとって冷泉天皇は、姪っ子(めいっこ)の子どもなのです。

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そうなんです!
藤原実頼と冷泉天皇は、外戚関係にないのです!!
これ、あとあと問題になりますので、覚えておいてくださいね。

じゃあ冷泉天皇の外戚である藤原師輔が関白になればいいじゃん!と思うでしょうが、
残念ながら藤原師輔はすでにこの世を去っているので、無理なのです…

*   *   *

冷泉天皇には精神的な病があることに加え、子どもがいないため、
即位してすぐに皇太子を決めることになります。
候補者として名前があがったのは、冷泉天皇の弟たち、
為平親王(ためひらしんのう)と守平親王(もりひらしんのう)です。
為平親王がお兄ちゃん、守平親王が弟です。

まわりは「年上の為平親王が選ばれるに違いない」、と思っていたようですが、
実際に皇太弟となったのは、まさかまさか弟の守平親王でした。

おそらく藤原実頼の画策でしょう…
なぜなら、為平親王の奥さんは、源高明(みなもとのたかあきら)の娘だからです。
(下の系図では「女」とありますが、それは名前が伝わっていないからです…)

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源高明は、醍醐天皇の息子です。
幼いころに臣籍降下(しんせきこうか)し、源の姓を名乗っています。
彼は、藤原師輔の娘(この女性も名前が伝わっていません…)と結婚したりして、
どんどん朝廷内で力をのばし、
冷泉天皇の時代には左大臣に抜擢(ばってき)されるに至ります。
左大臣ということは、関白に次ぐ政界のナンバー2です。

関白の藤原実頼にとって、左大臣にのぼりつめた源高明は、ただでさえ邪魔な存在です。
それなのに、もし為平親王が即位して、源高明の娘の産んだ子が天皇になったとしたら…

そう、源高明は天皇の外戚となるのです!

冷泉天皇の外戚ではない藤原実頼にとって、これは許せることではありません。
そこで藤原実頼は、守平親王が皇太弟になるようゴリ押ししまくり、
なんとか為平親王が皇太弟になることを阻止したのです。

やれやれ、これにて一件落着…

ではありません。
藤原実頼にとって、源高明はやっぱり邪魔なのです。

*   *   *

2年後。
969年のことです。

源経基(みなもとのつねもと)の息子である源満仲(みなもとのみつなか)が、
謀反(むほん)を起こそうとしている人物がいる、というような密告(みっこく)をします。
密告がどんな内容であったのか、詳しくは伝わっていません。
とにかく、源満仲が「なんか怪しいことを考えているヤツがいるよ!」と、朝廷にチクったのです。

すると…

源高明は、さてはあなたもこの「怪しいこと」に関わってんじゃないの?
もしかして娘の旦那さんである為平親王を即位させようとしてるんじゃないの??と疑われるのです。
そして、おそろしいスピードで大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷されてしまうのです。

源高明が「怪しいこと」に関わっていたのか、義理の息子である為平親王を擁立しようとしていたのか、
本当のところは分かりません。
とにもかくにも、藤原実頼にとって邪魔で仕方なかった源高明が、
ドサクサにまぎれて九州に追いやられてしまったのです。
これはもう…藤原実頼の策略としか思えませんよね…

うーん、なんともしっくりこない事件です…

*   *   *

これにて藤原北家による他氏排斥は完了です。
もはや藤原北家には逆らう者は現れず、彼らの勢力は不動のものになります。
以降、摂政・関白は必ず置かれるようになり(一部例外はありますが…)、
藤原忠平(ふじわらのただひら)の子孫がこれに就任するのがきまりとなります。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

969年.jpg
わけのわからんイラストですいません…
アンナの変ということで、アンナです(笑)
全国のアンナちゃんは、この授業のときにはみんなからイジられるんでしょうか…がんばれ!



次回は、尾張国郡司百姓等解(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげ)を取り上げます。
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949年 天暦の治がはじまる [年号のゴロ合わせ]

前々回前回と2回にわたり、承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)を取り上げました。
このときの天皇は、醍醐天皇(だいごてんのう)の息子である朱雀天皇(すざくてんのう)でしたね。

8歳で即位した朱雀天皇を支えたのは、摂政の藤原忠平(ふじわらのただひら)です。
やがて朱雀天皇が成人すると、藤原忠平は関白となります。



朱雀天皇の時代には、大変なことが次々と起こります。
承平・天慶の乱のほか、富士山の噴火をはじめ、地震・洪水などの天変地異が頻発するのです。
まさか菅原道真の怨霊のせいだとでもいうのでしょうか…

朱雀天皇は、子どもに恵まれなかったこともあり、早々に弟に譲位します。
村上天皇(むらかみてんのう)の誕生です。

村上天皇は、お兄ちゃんの時代に引き続き、藤原忠平を関白に任命します。
しかし、949年に藤原忠平が亡くなると、次の関白を任命することなく、親政を開始するのです。
といっても実際は、藤原忠平の息子である藤原実頼(ふじわらのさねより)が権力を握っていたようですが…

ではここで、平安時代の親政を、3つまとめて覚えておきましょう。

・宇多天皇の親政…寛平の治(かんぴょうのち)
・醍醐天皇の親政…延喜の治(えんぎのち)
・村上天皇の親政…天暦の治(てんりゃくのち)

いずれも当時の元号をとった呼び方です。
とくに醍醐天皇と村上天皇の親政はのちのち理想とされ、
「延喜・天暦の治」(えんぎ・てんりゃくのち)とまとめて呼ばれることがあります。

ちなみに、醍醐天皇・村上天皇親子の親政に憧れたのが、
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)・後村上天皇(ごむらかみてんのう)親子です。
天皇の名前を見ても明らかですね。

949.jpg

さて、天暦の治についてですが、
『後撰和歌集』(ごせんわかしゅう)の編纂や、『延喜式』(えんぎしき)の施行など色々ありますが、
覚えることはただ1つ!
乾元大宝(けんげんたいほう)の鋳造です。

これ、覚えていますか?
お金の名前ですよ!

和同開珎(わどうかいちん)にはじまる12種類の国産貨幣、ありましたよね?
まとめて本朝十二銭(ほんちょうじゅうにせん)とか、皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)といいます。
詳しくは711年のゴロ合わせで書きましたので、そちらをご覧下さい。

乾元大宝は、そのラストを飾る12番目の国産貨幣です。
といっても、このころ銅不足が深刻で、これは銅銭というより、もはや鉛(なまり)のお金です。
そんなこんなで国産貨幣に対する信用は失墜(しっつい)し、
人々は米などで物々交換をするようになります。

12世紀後半には、中国から貨幣を輸入するようになり、再び貨幣経済が広がってゆきます。
中国の貨幣はながらく流通し、国産貨幣の鋳造再開は17世紀を待たねばなりません。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

949年.jpg

949年は覚えるべき重要な年号ではありませんが、
天暦の治が10世紀なかばだった、ということを知ってもらうためにつくっておきました。



次回は、藤原北家による最後の他氏排斥事件、安和の変(あんなのへん)を取り上げます。
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939年 承平・天慶の乱が起こる② [年号のゴロ合わせ]

前回に引き続き、承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)を取り上げます。
今日見ていくのは、藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)です。



藤原純友(ふじわらのすみとも)は、このころ絶大な権力を誇っている藤原北家の人間です。
といっても、藤原純友はお父さんを早くに亡くしており、すっかり出世コースからはずれてしまっています。

あるとき、藤原純友の親戚のおじさんが、伊予国(いよのくに)で1番エラい国司に任命されます。
(伊予国がどこだか忘れてしまった人は、飛鳥時代(11)を復習ですよ!)

さて問題。
1番エラい国司って何でしたか?
分からない人は、飛鳥時代(8)のプリントの右下にある、四等官制の表を確認してください。

国司の四等官は、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)でしたね。
つまりおじさんは、伊予守(いよのかみ)に任命されたのです。
藤原純友は伊予掾(いよのじょう)として、おじさんと一緒に伊予国に行くことになります。

このころ、瀬戸内海では海賊が暴れまわっており、
藤原純友は、おじさんから海賊の討伐を任されることになります。

そして4年後…

国司の任期を終えたおじさんは、都に帰ってゆきます。
藤原純友ももちろん伊予掾としての任期を終えたので、一都に帰るのかと思いきや、
そのまま伊予国にとどまります。
どうせ都に帰ったところで、出世コースからはずれてしまっていますからね…
それよりなにより藤原純友は、このころ海賊のリーダーになっていたのです!

939-2-2.jpg

藤原純友は日振島(ひぶりしま)を根拠地として、なんと1000もの船を組織していたというのです。
都では出世できそうになかった彼ですが、海賊たちの間で大出世を成し遂げたのです。
ちなみに、日振島の場所はここです↓
939-2-1.png
(Craft MAPより作成)

海賊のリーダーである藤原純友は、やがて朝廷と対立し、
939年には海賊を率いて反乱を起こします。
同じころ、関東では平将門が反乱を起こしており、
朝廷は両者の共謀(きょうぼう)を疑い、パニックに陥ります。

朝廷は、小野好古(おののよしふる、小野篁の孫です)を追捕使(ついぶし)に任命し、
源経基(みなもとのつねもと)らとともに事態の収束にあたらせます。
なお、追捕使とは、平安時代(1)のプリントの左下にある表にも登場しましたが、
諸国の盗賊や海賊などを「追って捕らえる」ことを目的に設置された、令外官(りょうげのかん)です。

藤原純友は瀬戸内の国府を次々と襲い、さらに大宰府を占領します。
しかし、小野好古らの軍勢が九州に到着すると、
藤原純友は大宰府を焼き払ってこれを迎え撃たんとしますが、敗北してしまいます。
なんとか伊予国に逃れた藤原純友ですが、そこで捕らえられ、やがて獄中で亡くなります。
941年のことです。

*   *   *

939年に関東地方で起こった平将門の乱、そして、瀬戸内地方で起こった藤原純友の乱。
両者を鎮圧したのは朝廷の軍隊ではなく、押領使や追捕使に任命された地方武士です。
地方武士の実力を知った朝廷や貴族は、このあと武士の力を積極的に頼るようになっていきます。

つまり、承平・天慶の乱によって、
朝廷の軍事力の低下が明確になり、地方武士の組織がいっそう強化されることになるのです。

それでは、前回と今回のぶんのゴロ合わせ☆

939年.jpg

ちなみに、平将門と藤原純友について、こんな伝説が残っています。

かつて平将門と藤原純友は、それぞれ平安京で働いていました。
あるとき2人は比叡山にのぼり、平安京を見下ろしながら約束しました。
「いつか一緒に反乱を起こして都を奪おう。
そして、桓武天皇の子孫である平将門は天皇に、藤原氏である藤原純友は関白になろう!」、と。

この話、あくまで伝説であって、史実ではないと思われます。
あまりにも同じタイミングで両者の反乱が起きたため、
2人は共犯ではないか…というウワサが広がったのでしょうね。



次回は、村上天皇(むらかみてんのう)による親政を取り上げます。

画像出典
http://www.craftmap.box-i.net/
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939年 承平・天慶の乱が起こる① [年号のゴロ合わせ]

今日から2回にわたり、承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)を取り上げます。
承平・天慶の乱とは、939年に起きた2つの事件、
平将門の乱(たいらのまさかどのらん)と藤原純友(ふじわらのすみとものらん)をまとめた呼び方です。

このときの天皇は、醍醐天皇にかわって即位した、息子の朱雀天皇(すざくてんのう)です。
朱雀天皇は8歳で即位したため、藤原時平の弟である藤原忠平(ふじわらのただひら)が摂政となります。
宇多天皇・醍醐天皇と2代続いた親政はおこなわれず、摂関政治が復活するのです。

まず今日は、平将門の乱を見ていきましょう。



889年、桓武天皇のひ孫(孫という説もアリ)である高望王(たかもちおう、「たかのぞみおう」にあらず!)は、
平(たいら)の姓を賜って皇族を離れます。
これを、臣籍降下というんでしたね!
桓武天皇の血をひく平氏を、とくに桓武平氏(かんむへいし)と呼びます。

平高望(たいらのたかもち)となった彼は、国司として関東に赴きます。
やがて、平高望の息子たちも、それぞれ関東に定着します。
兄の平国香(たいらのくにか)は常陸国を、
弟の平良将(たいらのよしまさ)は下総国を本拠地とします。
そして、自分たちの権利を守るため武装し、武士団(ぶしだん)を形成していくのです。
(旧国名が分からない人は、飛鳥時代(11)で復習してくださいね!)

*   *   *

平将門(たいらのまさかど)は、平良将の息子です。
10代なかばのとき、都での出世を夢見て上京し、
(ここでいう「上京」は、もちろん平安京に行くことですよ!)
朝廷で働くようになって、かれこれ10年以上の月日が経っていました。
この間、藤原忠平のもとで働いていた時期もあったようです。

そこに、お父さんが亡くなったという連絡が届きます。
平将門は、急ぎ下総国に戻ります。

すると!
おじさんの平国香が、お父さんの土地を占領してしまっているではないですか!!(諸説アリマス)

さらに!
935年には、平国香の親戚から襲撃されてしまいます!!

実家に帰ったとたん、もう踏んだり蹴ったりです。
平将門は、おじさんの親戚の襲撃を打ち破り、おじさんの家に火をかけて、平国香を焼き殺します。
これによって、平国香の息子である平貞盛(たいらのさだもり)と対立することになりますが、
平将門が勝利します。

939-1.jpg

以上のことから、かつては935年に平将門の乱が起きた、とされていましたが、
この段階では、ただの平氏の内輪もめです。
まだ「平将門の乱」と呼ぶべき、朝廷に対する反乱ではありません。

それから数年後……

平将門はまわりから頼られる存在になっており、様々なモメゴトに巻き込まれます。
939年には、常陸国の国司と対立するややこしい人物をかくまったことから、
常陸国の国司と戦うハメになり、結果、常陸国の国府を降伏させてしまいます。

これが、朝廷に対する反乱と見なされるのです。
平将門の乱の始まりです。

平将門は、その勢いのまま下野国と上野国の国府も攻略し、
新皇(しんのう)と名乗って、下総国の猿島(さしま)という場所を内裏とします。
平安京の朱雀天皇(すざくてんのう)に対して、自らを「新しい天皇」だと考えたのでしょう。
新皇の勢いに驚いた国司たちは逃げ、平将門は関東一帯の占領に成功します。

同じころ、瀬戸内海では藤原純友の乱が起こっており、朝廷はもうパニックです。
なんとか早急に平将門の乱を鎮圧せねばなりません。
そこで立ち上がったのが、先ほど登場した、平将門のイトコである平貞盛です。

平貞盛は、下野国の押領使(おうりょうし)であるおじさんの藤原秀郷(ふじわらのひでさと)とともに、
(押領使については、平安時代(1)のプリント左下の表を見てください)
平将門の乱の鎮圧に向かいます。
戦況は一進一退でしたが、戦いのさなか、平将門は額に矢を受けて亡くなってしまいます。

地方で起きた武士の反乱が、地方の武士によって鎮圧されたのです。
平将門の首は、胴体から切り離されて京都に運ばれ、鴨川にさらされたそうです。

*   *   *

ところで、平将門の首は、その後どうなったのでしょうか…
これについて、なにやら怪しい話が伝わっています。

鴨川にさらされた平将門の首は、何ヶ月たっても腐ることなく、
目を見開き、歯ぎしりしているような表情のままだったそうです。

不気味ですよね…
絶対に近づきたくないですよね……

そこへ、とある人物が近づきます。
そして、首の前で、首をふまえた和歌を一句詠んでみたのです。

いるよね!
いるいる!!
こういうバチ当たりなヤツ!!!

すると突然!
平将門の首が笑ったのです!!
さらに地面が響き、稲妻が走ったのです!!!

そして、「体をくっつけてもういっぺん戦ってやる!俺の体はどこだーッ!!」と叫び、
平将門の首は白い光を放って東の方に飛んでいったのです!!!

コエーッッ!!

では、平将門の首は、一体どこまで飛んでいったのでしょう…

東京駅から皇居に向かってオフィス街をしばらく歩いたところに、「将門塚」(しょうもんづか)というものがあります。
平安京から飛んできた平将門の首は、どうやらここに落っこちたようです(諸説アリマス)。

DSC02967.JPG

高層ビルのなかにぽつんと忘れられたようにある、みどりに囲まれた静かな場所です。
中はこんな感じです。

DSC02971.JPG

平将門の名が刻まれた石碑の周りには、
「首が胴体の元にカエル」ということで、カエルがいっぱい並んでいます。

いやいや、そんなダジャレを言うてる場合じゃないんですよ!
というのもこの将門塚、ものすごいイワクつきなのです…

1923年に起きた関東大震災で、このあたりは一面瓦礫(がれき)の山となります。
そこで大蔵省(現在の財務省)は、将門塚のあった場所に仮庁舎を建てようとします。
便利な場所ですからね、そりゃ大蔵省もそうしたくもなりますよね。

ところが、工事が始まるやいなや、大蔵省の職員が次々と亡くなり、
当時の大蔵大臣までこの世を去ってしまったのです。
その数14名…

あかんやつです!

平将門の祟りだと畏れた大蔵省は、慌てて仮庁舎を取り壊し、将門塚を元通りにしたそうです。
ちなみに、別の場所に建て直した大蔵省の庁舎は、1940年に落雷で全焼してしまいます。
このときも、平将門の祟りではないかというウワサが広がり、
当時の大蔵大臣が平将門の魂を鎮める法要を催しています。

それだけではありません。

第二次世界大戦後のことです。
マッカーサー率いるGHQが日本に進駐し、東京駅近くにその本部を設置します。
そして、事情を知らないGHQは、将門塚のあたりを駐車場にするべく工事を開始します。
便利な場所ですからね、そりゃアメリカ人もそうしたくもなりますよね。

すると、作業にあたっていたブルドーザーが突然ひっくり返り、死者が出たのです!

絶対にあかんやつです!!

地元の人から将門塚のことを聞いたGHQは、すぐさま駐車場にする計画を白紙にしたそうです。

いまでも隣接するビルのなかには、将門塚にオシリを向けないような席の配置をしているんだとか…
そういえば、私は真夏の暑い日に将門塚を訪問したのですが、
中はなんだかひんやりしていたように思います。
気のせいかな…(笑)

次回は、同じく939年に起きた藤原純友の乱を取り上げます。
ゴロ合わせはそこでまとめて掲載しますので、今回はありません!あしからず!!


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902年 延喜の荘園整理令を出す [年号のゴロ合わせ]

前回は、醍醐天皇の時代に菅原道真が左遷される様子を取り上げました。
今日は、その醍醐天皇の政治を見ていきます。



醍醐天皇は、父である宇多天皇にならい、摂政・関白をおかずに政治をおこないます。
これを、親政とか天皇親政というんでしたね。
901年に右大臣の菅原道真を左遷したのちは、
左大臣の藤原時平とともに、くずれつつある律令体制の復興をめざします。

まずは、班田収授のたてなおしです。

班田は、6年に1度のペースでスタートしましたが、
時代とともにだんだんくずれてゆき、
桓武天皇の時代には、せめて12年に1度のペースでいいからやろう!と決まったのでしたね。
(ナニそれ?という方は、平安時代(1)を復習してください)

ところが、醍醐天皇の時代には、浮浪・逃亡・偽籍なども横行しており、
班田はすっかりおこなわれないようになっていたのです。
これではもちろん、口分田にかかる租は徴収できません。
国家としては、財政難です。

そこで902年、醍醐天皇は久しぶりに班田を実施します。
さらに同じ年、初めて荘園整理令を発令します。
以降、荘園整理令は、天皇がかわるタイミングでたびたび出されるので、
とくに醍醐天皇が出したものを、当時の元号をとって、
延喜の荘園整理令(えんぎのしょうえんせいりれい)と呼びます。

では、延喜の荘園整理令を史料から見てみましょう。

太政官符す(ふす、上級官庁から下級官庁に命令を下すこと)
 応(まさ)に勅旨開田(ちょくしかいでん、勅旨田のこと)并(なら)びに諸院諸宮(皇后や皇族のこと)及び五位以上の、百姓の田地舎宅(しゃたく、住宅のこと)を買ひ取り、閑地荒田を占請(せんせい)するを停止(ちょうじ)すべきの事
 右、案内(あない)を検ずるに(過去の記録を調べること)、頃年(このごろ)勅旨開田遍(あまね)く諸国に在(あ)り。空閑荒廃の地を占むと雖(いえど)も、是(こ)れ黎元(れいげん、人民のこと)の産業の便を奪ふなり。加之(しかのみならず)、新たに庄家を立て、多く苛法(かほう)を施す。課責(かせき、課役の負担のこと)尤(もっと)も繁く、威脅耐へ難し。且つ諸国の奸濫(かんらん、よこしまで不法であること)の百姓、課役を遁(のが)れんが為(た)め、動(やや)もすれば京師(けいし、都のこと)に赴(おもむ)き、好みて豪家(ごうか、有力な家のこと)に属し、或(あるい)は田地を以て詐(いつわ)りて寄進と称し、或は舎宅を以て巧(たく)みに売与と号し、遂に使(豪家の使者のこと)に請(こ)ひて牒(ちょう、公文書の一種のこと)を取り、封(他人がみだりに入れないようにすること)を加へ、牓(ぼう、境界を示す標識のこと)を立つ。国吏(こくり、国の役人のこと)矯餝(きょうしょく、偽りのこと)の計と知ると雖も、而(しか)も権貴(けんき、豪家に同じ)の勢を憚(はばか)りて口を鉗(つぐ)み舌を巻き敢(あえ)て禁制せず。茲(これ)に因(よ)りて、出挙(すいこ)の日、事を権門に託して正税を請(う)けず。収納の時、穀を私宅に蓄へて官倉に運ばず。賦税の済(な)し難き、斯(ここ)に由(よ)らざるは莫(な)し。(中略)宜(よろ)しく当代(〔1  〕天皇の時代のこと)以後、勅旨開田は皆悉(ことごと)く停止して民をして負作(ふさく、土地を貸して耕作させ、レンタル料をとること)せしめ、其の寺社百姓の田地は、各(おのおの)公験(くげん、土地などに関する証明書のこと)に任せて本主(本来の持ち主のこと)に還(かえ)し与ふべし。(中略)但(ただ)し、元来相伝(そうでん、相続のこと)して庄家たること券契(けんけい、公験に同じ)分明にして、国務に妨げ無き者は此(こ)の限りに在らず。(中略)
 〔2  〕二年(902年のこと)三月十三日
(出典『類従三代格』)

長いですね…
入試では、冒頭の「応に…」の一文だけがよく出題されます。

空欄にあてはまる語句は分かりますか?
 1…醍醐(天皇)
 2…延喜
ですよ!

延喜の荘園整理令の内容を簡単にまとめると、
 ①醍醐天皇が即位した897年以降に成立した勅旨田を廃止
 ②農民たちが、有力な貴族や寺社に土地を寄進することを禁止
 ③有力な貴族や寺社が、未開の山野を不法に占拠することを禁止
となります。

743年の墾田永年私財法で土地の私有が認められた結果、各地で荘園が成立します。
なかでも有力な貴族や寺社は、近くに住む農民はもちろん、
浮浪・逃亡している農民までも労働力として取り込み、どんどん荘園をひろげます。
そして、浮浪・逃亡などで持ち主のいなくなった口分田も、彼らの荘園としてしまうのです。

このままでは国の土地は荘園に圧迫され、国家財政は破綻してしまいます。

そこで醍醐天皇は、公地公民制を根本とする律令体制の再興を目指します。
まずは皇室の財源を確保するためにつくった、皇室の荘園とも言うべき勅旨田を自ら廃止します。
そして、有力な貴族や寺社の大土地所有を禁止することで、国の土地を確保しようとしたのです。

902.jpg

ただし、史料中の下線部分にあるように、
券契がはっきりしている荘園、すなわち由来がはっきりしている荘園で、
かつ国務の妨げにならない荘園は整理の対象外としているので、
延喜の荘園整理令は不徹底に終わります。

班田も、902年以降に実施されたという史料は今のところ見つかっておらず、
これがおそらく最後の班田になったのであろうと考えられています。

そのほかの醍醐天皇の功績としては、
紀貫之(きのつらゆき)らに『古今和歌集』の編纂を命じたことがあげられます。
また、六国史の6番目にあたる『日本三代実録』や、
三代格式の1つである『延喜格式』も、醍醐天皇の時代に成立しています。

そんな醍醐天皇の親政はのちのち理想とされ、「延喜の治」(えんぎのち)と呼ばれるようになります。

とくに醍醐天皇を理想とした天皇は誰か分かりますか?

イラストにも描きましたが、正解は後醍醐天皇です。
名前を見ても明らかですもんね(笑)
本来、天皇の名前(厳密には諡号(しごう)といいます)は亡くなったあとにおくられるのですが、
醍醐天皇をリスペクトしまくりの彼は、
「俺が死んだら後醍醐って名前にしてね!」と自分で決めていたようです。
後醍醐天皇がなぜそこまで醍醐天皇をリスペクトしたのかについては、のちのちお話ししようと思います。

のちに理想とされた時代ではありますが、財政難と地方政治の混乱はおさまらず、
醍醐天皇は、三善清行(みよしきよゆき)という学者に意見を求めます。
彼はかつて国司として地方政治をになったことがあり、
その経験をもとに、中央や地方の政治改革、経費節減などについての対策を12か条にまとめ、
914年に醍醐天皇に提出します。
これが、三善清行の「意見封事十二箇条」(いけんふうじじゅうにかじょう)です。

いよいよ中央政府は、税制の大改革を余儀なくされるのです。
これについては、またのちほどプリントにまとめようと思います。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

902年.jpg



次回は、平将門の乱と藤原純友の乱を取り上げます。
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901年 菅原道真が左遷される [年号のゴロ合わせ]

前回は、宇多天皇の信頼あつい菅原道真が、遣唐使派遣の停止を建議する様子を取り上げました。
ところが今回、菅原道真は左遷(させん)されてしまいます…

ちなみに、左遷の意味は分かっていますね?
そのときの身分よりも、低い身分に落とされることですよ!
よく出てくる用語なので、しっかり理解しておいてください。



897年、宇多天皇は、息子の醍醐天皇(だいごてんのう)に譲位します。
その際、くれぐれも菅原道真を引き続き重用するようにと醍醐天皇に伝え、
自身は仏教を深く信仰する日々を送ります。

醍醐天皇のもと、藤原時平は左大臣に、そして菅原道真は右大臣になります。
宇多上皇の猛烈なプッシュもあったのでしょう、
学者が右大臣になるなんて、吉備真備以来の大出世です。

この大出世が人々のねたみを買ってしまったのか、
やがて次のような黒いウワサが流れるようになります。

菅原道真は、醍醐天皇を天皇の座から引きずり下ろし、
斉世親王(ときよしんのう)を即位させようとしている。

斉世親王というのは醍醐天皇の弟で、菅原道真にとっては娘の結婚相手です。
つまり、菅原道真は、醍醐天皇にかわって娘の旦那を天皇にしようとしている、
というウワサが朝廷に広がってしまったのです。

おそらくウワサの発信源は、菅原道真の排斥をねらう藤原時平でしょう。
教科書などには、「藤原時平の讒言(ざんげん)によって菅原道真は左遷された」なんて書かれていますね。
讒言とは、その人の悪口を、ウソやデマをふんだんに盛り込んで、目上の人にチクることです。
ちなみに、「讒」はとてつもなくややこしい漢字ですが、
のちのち讒謗律(ざんぼうりつ)という用語が登場するので、書けるようにならなければなりません…
よくもまぁこんな画数の多い漢字を選んでくれたなと怒りたくなりますね…

この黒いウワサを、若い醍醐天皇は事実にちがいないと受けとめ、
菅原道真を大宰権帥(だざいごんのそち、または、だざいごんのそつ)に左遷してしまいます。

さて、大宰権帥とは何か分かりますか?

飛鳥時代(8)で登場した四等官制を思い出してください。
大宰府のナンバーワンは、大宰帥(だざいのそち、または、だざいのそつ)です。
大宰権帥は、この大宰帥に「権」の文字が入り込んだものです。
「権」の文字には「権(かり)」という意味があり、
律令が定める定員をこえて任じられた官職などに、「権(ごん)」の文字がつけられます。
つまり、大宰権帥は大宰帥に次ぐ役職、大宰府におけるナンバーツーなのです。
といっても、中央でばりばり働いていた菅原道真にとって、この人事は完全なる左遷です。

これを知った宇多法皇(上皇が出家すると法皇(ほうおう)となります、宇多法皇はこのころ出家済み)は、
すぐさま左遷を撤回するよう醍醐天皇を説得しようとしますが、
醍醐天皇から面会を拒否されてしまいます。

醍醐天皇にとって、菅原道真をプッシュするお父さんはうっとおしい存在だったのかもしれません。
醍醐天皇の宇多法皇に対する反発心が、菅原道真の左遷を決定的にした、とも考えられます。

結局、菅原道真の左遷はくつがえされることはなく、
さらに4人の息子たちにも流罪が言い渡されてしまいます。

*   *   *

901年、菅原道真は大宰府へと向かいます。
平安京を離れる際に詠んだのが、有名な次の和歌です。

東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ
(「春な忘れそ」の部分を「春を忘るな」とする書物もあります)

春になって東の風が吹いたなら、梅の香りを私のもとまで届けておくれ。
主人がいないからといって、春を忘れてはいけないよ。

という意味です。
梅を愛する菅原道真が、自宅の庭にあった梅の花との別れを惜しんで詠んだものです。

どうやらその梅も菅原道真のことを愛していたようで、
一晩のうちに、菅原道真が住む九州の屋敷の庭まで飛んできた、
なんていう飛梅(とびうめ)伝説ものこっています。

*   *   *

903年、菅原道真は平安京に戻ることを許されないまま、大宰府で亡くなります。
藤原時平としては、ライバルが完全にいなくなってバンバンザイです。
左大臣として、これからますますバリバリ働こう!ってなもんです。

ところが…

6年後、藤原時平は、39歳の若さでこの世を去ってしまいます。

また913年には、源光(みなもとのひかる)という人物が、狩りの最中に泥沼へ落ちて溺死します。
彼は藤原時平と手を組んで菅原道真を排斥し、
菅原道真にかわって右大臣に就任した人物だったのです。
ちなみに、彼の遺体は泥沼のなかから見つかることはありませんでした…

なんだか不気味ですよね…
菅原道真を左遷させた張本人が、次々と亡くなるなんて…

しかも、これだけでは終わりません…

923年、醍醐天皇の息子である皇太子が病死します。
彼の母親は、藤原時平の妹です。
つまり、藤原時平の甥っ子にあたる人物が、21歳の若さで亡くなるのです。

かわって、亡き皇太子の息子(醍醐天皇の孫)を皇太子(皇太孫)としますが、
2年後、わずか5歳でこの世を去ってしまいます。

怖い…
怖いですよね……
絶対なんかありますよね、コレ………

極めつけは930年。
都で干ばつが続いていたため、朝廷では雨乞い(あまごい)をおこなうかどうかの会議をしていました。
すると、突然黒い雲が平安京をおおいつくします。

そして!
次の瞬間!!
朝廷に雷が落ちたのです!!!

顔を焼かれる者や胸を焼かれる者がおり、朝廷ではたくさんの死傷者が出ます。
さらに、それを目撃した醍醐天皇は体調を崩し、3ヶ月後に亡くなってしまうのです。

京都にある北野天満宮(きたのてんまんぐう)が所蔵する、
国宝の「北野天神縁起絵巻(きたのてんじんえんぎえまき)」には、
朝廷に雷が落ちたシーンが次のように描かれています。

bbb.jpg

黒い雲のなかに、稲光をまとった赤い鬼が描かれているのが分かりますね。

これは一体誰なのでしょうか…

そう、菅原道真です。

菅原道真は無実だったのに大宰府へ左遷されて可哀想!
きっとこの世に恨(うら)みをいっぱいのこして死んだから、
怨霊(おんりょう)になって人を呪い殺したり、雷を落としたりしているに違いない!
と人々は考えたわけです。

朝廷もおそれおののき、菅原道真の罪を赦(ゆる)して高い位を与えたり、
流罪となっていた彼の子どもたちを平安京に呼び戻したりします。

それでも怖いよね、怖い。

そこで、京都には北野天満宮(明治時代から一時期、北野神社と改称)を、
菅原道真の墓所には太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう、漢字注意!「太」宰府ですからね)を建て、
菅原道真を「天神様(てんじんさま)」として祀(まつ)り、祟(たた)りを鎮めようとします。

このように、人々を脅(おびや)かす怨霊をおそれ、
それをお祀りすることで怨霊を慰めようとする信仰を、御霊信仰(ごりょうしんこう)といいます。
なかでも菅原道真をお祀りすることは、とくに天神信仰(てんじんしんこう)と呼びます。

901.jpg

また、怨霊を慰めるためにおこなう法要やお祭りを、御霊会(ごりょうえ)といいます。
日本三大祭りの1つである、大阪の天神祭(てんじんまつり)も御霊会の1つです。
菅原道真が2月25日に亡くなったことから、
月命日にあたる7月25日を中心に、毎年大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)でおこなわれています。
花火が有名ですが、れっきとした菅原道真を慰める御霊会なんですよ。
ただの花火大会ではありません。

現在では、菅原道真が怨霊とおそれられたことはすっかり忘れ去られ、
彼がすぐれた学者であったことから「学問の神さま」として信仰されるようになっています。
みなさんも受験の際にはお世話になることがあるかもしれませんね!

それでは、今日のゴロ合わせ。

901年.jpg

ちなみに、901年は昌泰(しょうたい)四年なので、菅原道真が左遷された事件を昌泰の変と呼びます。
最近は教科書にこの名称が載らなくなったので、覚える必要はありません。
でもせっかくなので、イラストでは「招待状」とかけてみました。

なお、901年は昌泰の変やら色々あったので、夏に延喜(えんぎ)元年に改元されます。



次回は、菅原道真の左遷後におこなわれる、醍醐天皇による延喜の治(えんぎのち)を取り上げます。

画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B6%BC%E6%AE%BF%E8%90%BD%E9%9B%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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894年 遣唐使の派遣を停止する [年号のゴロ合わせ]

前回は、阿衡の紛議を取り上げました。
阿衡の紛議とは、藤原基経が宇多天皇に勅書を撤回させ、さらに橘広相の排斥に成功した事件でしたね。
このとき事態を収束させたのは、学者の菅原道真(すがわらのみちざね)です。
今日は、その菅原道真が建議した、遣唐使派遣の停止について見ていきます。



藤原基経が亡くなると、宇多天皇は関白を置くことなく、自ら政治をおこなうようになります。
藤原基経の息子である藤原時平(ふじわらのときひら)を、
まだ若いということもあって、関白に任命しなかったのです。
宇多天皇は、よっぽど関白という存在に懲(こ)りていたのでしょうね…(笑)

このように、摂政や関白をおかず、天皇自らがおこなう政治のことを、
親政(しんせい)とか天皇親政といいます。
宇多天皇の親政は、当時の元号をとって、とくに「寛平の治(かんぴょうのち)」と呼ばれます。

寛平の治では、優秀な人材がたくさん登用されます。
その1人が、菅原道真です。

菅原道真は、大学で紀伝道を教える文章博士(もんじょうはかせ)として活躍するほどの秀才で、
阿衡の紛議を収束させたあたりから、宇多天皇の信頼を得るようになります。
もしかしたら宇多天皇には、
菅原道真を重用することで、藤原北家の力を抑えてやろう…
なんて意図もあったのかもしれません。

さてその菅原道真。
894年に遣唐大使(けんとうたいし、遣唐使のリーダー)に選ばれます。
遣唐使については、奈良時代(5)にまとめてありますので、そちらもご覧下さいね。

遣唐使は、838年に派遣されて以来、50年以上途絶えています。
そこで、久しぶりに菅原道真をリーダーとして派遣しようということになったのです。

なぜこのタイミングだったのでしょうね…
ひょっとすると、宇多天皇の信頼あつい菅原道真を遠いところへ行かせてしまえ!という、
藤原時平の陰謀もあったのかもしれません。

ではここで、遣唐使に対する菅原道真の考えを見てみましょう。
久しぶりの史料です!

  諸公卿をして〔1   〕の進止(しんし、進退のこと)を議定(ぎじょう)せしめむことを請(こ)ふの状
右、臣某(〔2   〕のこと)、謹(つつし)みて在唐の僧中瓘(ちゅうかん)、去年(893年のこと)三月商客(商人のこと)王訥(おうとつ)等に附して到る所の録記を案ずるに、大唐の凋弊(ちょうへい、衰退すること)、之(これ)を載すること具(つぶさ)なり。(中略)臣等、伏して旧記を検(けみ)するに、度々の使等、或は海を渡りて命(めい)に堪(た)へざりし者有り、或は賊に遭(あ)ひて遂に身を亡(ほろ)ぼせし者有り。唯(た)だ、未(いま)だ唐に至りて難阻飢寒(なんそきかん、旅の困難や飢えや寒さ)の悲しみ有りしことを見ず。中瓘の申報(しんぽう)する所の如くむば、未然の事(将来のこと)、推(お)して知るべし。臣等伏して願はくは、中瓘の録記の状を以て、遍(あまね)く公卿・博士に下し、詳(つまび)らかに其(そ)の可否(〔1   〕の派遣の可否のこと)を定められむことを。国の大事にして、独り身の為(た)めのみにあらず。且(しばら)く款誠(かんせい、まごころのこと)を陳(の)べ、伏して処分を請ふ。謹みて言(もう)す。
  寛平六年(〔3   〕年のこと)九月十四日
  大使参議勘解由次官従四位下兼守左大弁行式部権大輔 春宮亮菅原朝臣某(〔2   〕のこと)
(出典『菅家文草』(かんけぶんそう))

空欄にあてはまる語句は分かりましたか?
 1…遣唐使
 2…菅原道真
 3…894

内容を簡単にまとめると、

去年、唐にいる中瓘というお坊さんが、商人らに託して送ってくれた記録には、
唐が衰退している様子が詳しく書かれていました。
そこで、遣唐使の過去の記録を調べてみると、
唐に渡って任務を果たせなかった者や、賊に襲われて死んだ者はありましたが、
唐に着いてから、旅の困難や飢えや寒さにみまわれる者はいませんでした。
中瓘の報告通りならば、これから遣唐使にどのような危険が生じるか分かりません。
どうか中瓘の記録を公卿や博士たちで検討し、どうぞ遣唐使派遣の可否を審議してください。
これは国家の大事であり、私個人の身の安全のために言っていることではありません。
よろしくお願いします。

となります。

中国にいるお坊さんから「唐はヤバいよ!」ということを聞いた菅原道真が、
遣唐使の派遣を停止するべきではないか、と建議しているのです。

事実、唐は755~763年に起きた安史の乱(あんしのらん)以降、その権威を低下させています。
さらに875年ごろには黄巣の乱(こうそうのらん)が起こり、
反乱を率いた黄巣は、唐の都である長安を陥落させ、斉(せい)という国を建てて皇帝となっています。
斉はわずか5年ほどで滅んでしまいますが、もはや唐の衰退は明らかです。
そんなところに、わざわざ航海の危険をおかしてまで行く必要はあるのでしょうか。

しかも、このころには唐の商人が日本にやって来る機会も増えていて、
わざわざ唐まで行かなくても唐の文物がたくさん日本に入ってきているのです。
さきほどの中瓘の手紙だって、商人の手を通じて菅原道真のもとに届いていますもんね。

それに、遣唐使の留学費用は基本的に唐が負担してくれるのですが、
自分の国がめちゃめちゃなのに、留学生の待遇なんてとても期待できないわけですよ。
唐に渡っても、苦しい留学ライフが待っているのは明らかです。

894.jpg

これは…
行きたくないですよね…
行きたくない。

そこで菅原道真は、先の史料のような建議をしたのです。
史料のなかでも言っているように、ただ自分が唐に行きたくないだけではなく、
もちろん国家のことを思っての建議です。
遣唐使を派遣するには、じょうぶな船も作らなければならないし、
唐に持って行く立派なお土産も用意しなければなりません。
つまり、遣唐使を派遣するには、莫大な費用がかかるわけです。
遣唐大使である菅原道真は、
果たしていま、そんな遣唐使を派遣する意味はあるのだろうか、
という疑問をぶつけたわけです。

結果、彼の意見は受け入れられ、894年に遣唐使の停止が決定します。
ただし、菅原道真は遣唐大使のままです。
いずれ唐が元気になるまで延期にしましょう、といったところでしょうか。

そうこうしているうちに、901年に菅原道真が大宰府へと左遷されてしまい、
さらに907年には唐が滅んでしまいます。
唐の滅亡により、遣唐使は事実上廃止となるのです。

それでは今日のゴロ合わせ☆

894年.jpg



次回は、菅原道真が左遷(させん)される様子を取り上げます。
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887年 阿衡の紛議が起こる [年号のゴロ合わせ]

前回は、藤原基経が光孝天皇から関白に任命される様子を見ていきました。
今日は、その光孝天皇の死後に起こる、阿衡の紛議(あこうのふんぎ)を取り上げます。



887年、光孝天皇が亡くなり、かわって息子の宇多天皇(うだてんのう)が即位します。

即位する前、宇多天皇は源定省(みなもとのさだみ)と名乗っていました。
父である光孝天皇が、子どもたちに源の姓を与え、皇族を離れさせたためです。
これは、「私は自分の子どもを次の天皇にしようだなんて思っていませんよ」というアピールです。
おそらく、藤原高子や陽成天皇などに気をつかったのでしょうね…

このように、皇族がその身分を離れ、姓を賜(たまわ)って臣下の籍に降(お)りることを、
臣籍降下(しんせきこうか)といいます。
これについては、またのちのち詳しくお話ししますね。

ちなみに、まもなく眞子さまがご婚約をなさるとのことですが、
現代では、皇族の女性が結婚してその身分を離れることを、皇籍離脱(こうせきりだつ)といいます。

源定省は、光孝天皇の危篤(きとく)にともない皇族に復帰し、皇太子となります。
そして、皇太子となったその日のうちに光孝天皇がこの世を去り、彼は宇多天皇となるのです。
臣籍降下した人物が天皇になるのは、初めてのことです。

やはり我が子を天皇にしたい、という父としての光孝天皇の願いと、
藤原高子の子(陽成天皇の弟)を天皇にしたくない、という藤原基経の意志がはたらいてのことでしょう。
それにしても、ほんっとに仲の悪い兄妹ですこと…

*   *   *

宇多天皇は、光孝天皇の時代と同じように、藤原基経に天皇の補佐をしてもらおうと考えます。
宇多天皇はすでに成人しているので、摂政はおけません。
そこで、関白に任命する勅書(ちょくしょ、天皇の手紙のこと)を藤原基経のもとへ届けます。
藤原基経にとって、待ちに待った勅書です。
ところが、藤原基経はこれを辞退するのです。

藤原基経は、引き続き関白をやりたいはずですよね?
すごくやりたいはずですよね??
それなのに、なぜ辞退したのかというと…

きまりだからです!!

天皇からエラい役職に任命されると、
「イエイエ、私がそんな役職に就くだなんてとんでもありません!」といったん断らなければならないのです。
すると、天皇から再び「イヤイヤ、この仕事を任せられるのはお前だけだから!受けてくれ!!」と手紙が来ます。
そこでようやく「そうですか…そこまでおっしゃるのならば…お受けいたします!」と、なるのです。

887.jpg

めんどくさっ!めっちゃめんどくさっ!!(笑)
とりあえずね、貴族の社会ではね、どんなにやりたい仕事でもね、飛びついてはいかんのですよ!
それが貴族の美学とゆーやつなのですよ!!

ということで、いったん関白を辞退した藤原基経のもとに、2度目の勅書が届きます。
ヤッター!これで関白になれるゾー!っと思って勅書を読むと…
なんと、そこに「関白」の文字がないのです!
かわって「宜(よろ)しく阿衡(あこう)の任(にん)をもって卿(きょう)の任(にん)とせよ」とあるのです!

アコウ?
なにそれ??
ですよね。

阿衡とは、殷(いん)の時代の役職です。
殷ですよ!殷!!
中国で一番古い王朝です!!!
(中国の王朝の順番については、弥生時代(4)で確認しておいてください)
しかも、すごく地位の高い役職ではあるのですが、とくに仕事はない、というものなのです。
まぁいわゆる名誉職ってやつですね。

これに怒った藤原基経は、仕事を放棄して自宅に引きこもってしまいます。
そして、この勅書の文を考えた橘広相(たちばなのひろみ)という人物を罷免するよう訴えます。

いままで関白としてバリバリ働いてきた藤原基経のストライキによって、
政治はまったく動かなくなってしまいます。
困り果てた宇多天皇は、翌888年にやむなく2通目の勅書を取り消し、橘広相を罷免します。
しかし、それでも怒りのおさまらない藤原基経は、さらに橘広相を流罪にするよう訴えるのです。

怖すぎるよ、藤原基経……

いくらなんでもそれはやりすぎだろうと考えた秀才と名高い菅原道真(すがわらのみちざね)が、
藤原基経をなだめることになんとか成功し、事態はようやく収束します。
このあと藤原基経は、関白として宇多天皇を補佐してゆくのです。

以上が、阿衡の紛議です。
または阿衡事件(あこうじけん)ともよばれます。

それにしも、藤原基経はなぜここまでゴネたのでしょうか…

実は、橘広相の娘は宇多天皇と結婚していて、男の子を産んでいるのです。
もしその子が天皇になったら…?
そう、橘広相は天皇の外戚となるわけです。
藤原基経はそれを阻止するために、ゴネたのかもしれません。
果たして橘広相に、藤原基経の権力をそいでやろうなんて意図はあったのでしょうかね…

さらに阿衡の紛議は、橘広相の排斥に成功しただけでなく、
藤原基経は宇多天皇を思い通りに動かせるんだ、ということも世間に知らしめたのです。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

887年.jpg
 ↑藤原基経が持っているのはワラ人形ですよ、念のため(笑)

891年に藤原基経が亡くなると、宇多天皇は次の関白を任命せず、自ら政治をおこないます。
関白という存在が、よっぽど面倒だったのでしょうね…(笑)
かわって宇多天皇は、さきほど登場した菅原道真を重用するようになるのです。



次回は、その菅原道真が建議した、遣唐使派遣の停止について取り上げます。
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