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901年 菅原道真が左遷される [年号のゴロ合わせ]

前回は、宇多天皇の信頼あつい菅原道真が、遣唐使派遣の停止を建議する様子を取り上げました。
ところが今回、菅原道真は左遷(させん)されてしまいます…

ちなみに、左遷の意味は分かっていますね?
そのときの身分よりも、低い身分に落とされることですよ!
よく出てくる用語なので、しっかり理解しておいてください。



897年、宇多天皇は、息子の醍醐天皇(だいごてんのう)に譲位します。
その際、くれぐれも菅原道真を引き続き重用するようにと醍醐天皇に伝え、
自身は仏教を深く信仰する日々を送ります。

醍醐天皇のもと、藤原時平は左大臣に、そして菅原道真は右大臣になります。
宇多上皇の猛烈なプッシュもあったのでしょう、
学者が右大臣になるなんて、吉備真備以来の大出世です。

この大出世が人々のねたみを買ってしまったのか、
やがて次のような黒いウワサが流れるようになります。

菅原道真は、醍醐天皇を天皇の座から引きずり下ろし、
斉世親王(ときよしんのう)を即位させようとしている。

斉世親王というのは醍醐天皇の弟で、菅原道真にとっては娘の結婚相手です。
つまり、菅原道真は、醍醐天皇にかわって娘の旦那を天皇にしようとしている、
というウワサが朝廷に広がってしまったのです。

おそらくウワサの発信源は、菅原道真の排斥をねらう藤原時平でしょう。
教科書などには、「藤原時平の讒言(ざんげん)によって菅原道真は左遷された」なんて書かれていますね。
讒言とは、その人の悪口を、ウソやデマをふんだんに盛り込んで、目上の人にチクることです。
ちなみに、「讒」はとてつもなくややこしい漢字ですが、
のちのち讒謗律(ざんぼうりつ)という用語が登場するので、書けるようにならなければなりません…
よくもまぁこんな画数の多い漢字を選んでくれたなと怒りたくなりますね…

この黒いウワサを、若い醍醐天皇は事実にちがいないと受けとめ、
菅原道真を大宰権帥(だざいごんのそち、または、だざいごんのそつ)に左遷してしまいます。

さて、大宰権帥とは何か分かりますか?

飛鳥時代(8)で登場した四等官制を思い出してください。
大宰府のナンバーワンは、大宰帥(だざいのそち、または、だざいのそつ)です。
大宰権帥は、この大宰帥に「権」の文字が入り込んだものです。
「権」の文字には「権(かり)」という意味があり、
律令が定める定員をこえて任じられた官職などに、「権(ごん)」の文字がつけられます。
つまり、大宰権帥は大宰帥に次ぐ役職、大宰府におけるナンバーツーなのです。
といっても、中央でばりばり働いていた菅原道真にとって、この人事は完全なる左遷です。

これを知った宇多法皇(上皇が出家すると法皇(ほうおう)となります、宇多法皇はこのころ出家済み)は、
すぐさま左遷を撤回するよう醍醐天皇を説得しようとしますが、
醍醐天皇から面会を拒否されてしまいます。

醍醐天皇にとって、菅原道真をプッシュするお父さんはうっとおしい存在だったのかもしれません。
醍醐天皇の宇多法皇に対する反発心が、菅原道真の左遷を決定的にした、とも考えられます。

結局、菅原道真の左遷はくつがえされることはなく、
さらに4人の息子たちにも流罪が言い渡されてしまいます。

*   *   *

901年、菅原道真は大宰府へと向かいます。
平安京を離れる際に詠んだのが、有名な次の和歌です。

東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ
(「春な忘れそ」の部分を「春を忘るな」とする書物もあります)

春になって東の風が吹いたなら、梅の香りを私のもとまで届けておくれ。
主人がいないからといって、春を忘れてはいけないよ。

という意味です。
梅を愛する菅原道真が、自宅の庭にあった梅の花との別れを惜しんで詠んだものです。

どうやらその梅も菅原道真のことを愛していたようで、
一晩のうちに、菅原道真が住む九州の屋敷の庭まで飛んできた、
なんていう飛梅(とびうめ)伝説ものこっています。

*   *   *

903年、菅原道真は平安京に戻ることを許されないまま、大宰府で亡くなります。
藤原時平としては、ライバルが完全にいなくなってバンバンザイです。
左大臣として、これからますますバリバリ働こう!ってなもんです。

ところが…

6年後、藤原時平は、39歳の若さでこの世を去ってしまいます。

また913年には、源光(みなもとのひかる)という人物が、狩りの最中に泥沼へ落ちて溺死します。
彼は藤原時平と手を組んで菅原道真を排斥し、
菅原道真にかわって右大臣に就任した人物だったのです。
ちなみに、彼の遺体は泥沼のなかから見つかることはありませんでした…

なんだか不気味ですよね…
菅原道真を左遷させた張本人が、次々と亡くなるなんて…

しかも、これだけでは終わりません…

923年、醍醐天皇の息子である皇太子が病死します。
彼の母親は、藤原時平の妹です。
つまり、藤原時平の甥っ子にあたる人物が、21歳の若さで亡くなるのです。

かわって、亡き皇太子の息子(醍醐天皇の孫)を皇太子(皇太孫)としますが、
2年後、わずか5歳でこの世を去ってしまいます。

怖い…
怖いですよね……
絶対なんかありますよね、コレ………

極めつけは930年。
都で干ばつが続いていたため、朝廷では雨乞い(あまごい)をおこなうかどうかの会議をしていました。
すると、突然黒い雲が平安京をおおいつくします。

そして!
次の瞬間!!
朝廷に雷が落ちたのです!!!

顔を焼かれる者や胸を焼かれる者がおり、朝廷ではたくさんの死傷者が出ます。
さらに、それを目撃した醍醐天皇は体調を崩し、3ヶ月後に亡くなってしまうのです。

京都にある北野天満宮(きたのてんまんぐう)が所蔵する、
国宝の「北野天神縁起絵巻(きたのてんじんえんぎえまき)」には、
朝廷に雷が落ちたシーンが次のように描かれています。

bbb.jpg

黒い雲のなかに、稲光をまとった赤い鬼が描かれているのが分かりますね。

これは一体誰なのでしょうか…

そう、菅原道真です。

菅原道真は無実だったのに大宰府へ左遷されて可哀想!
きっとこの世に恨(うら)みをいっぱいのこして死んだから、
怨霊(おんりょう)になって人を呪い殺したり、雷を落としたりしているに違いない!
と人々は考えたわけです。

朝廷もおそれおののき、菅原道真の罪を赦(ゆる)して高い位を与えたり、
流罪となっていた彼の子どもたちを平安京に呼び戻したりします。

それでも怖いよね、怖い。

そこで、京都には北野天満宮(明治時代から一時期、北野神社と改称)を、
菅原道真の墓所には太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう、漢字注意!「太」宰府ですからね)を建て、
菅原道真を「天神様(てんじんさま)」として祀(まつ)り、祟(たた)りを鎮めようとします。

このように、人々を脅(おびや)かす怨霊をおそれ、
それをお祀りすることで怨霊を慰めようとする信仰を、御霊信仰(ごりょうしんこう)といいます。
なかでも菅原道真をお祀りすることは、とくに天神信仰(てんじんしんこう)と呼びます。

901.jpg

また、怨霊を慰めるためにおこなう法要やお祭りを、御霊会(ごりょうえ)といいます。
日本三大祭りの1つである、大阪の天神祭(てんじんまつり)も御霊会の1つです。
菅原道真が2月25日に亡くなったことから、
月命日にあたる7月25日を中心に、毎年大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)でおこなわれています。
花火が有名ですが、れっきとした菅原道真を慰める御霊会なんですよ。
ただの花火大会ではありません。

現在では、菅原道真が怨霊とおそれられたことはすっかり忘れ去られ、
彼がすぐれた学者であったことから「学問の神さま」として信仰されるようになっています。
みなさんも受験の際にはお世話になることがあるかもしれませんね!

それでは、今日のゴロ合わせ。

901年.jpg

ちなみに、901年は昌泰(しょうたい)四年なので、菅原道真が左遷された事件を昌泰の変と呼びます。
最近は教科書にこの名称が載らなくなったので、覚える必要はありません。
でもせっかくなので、イラストでは「招待状」とかけてみました。

なお、901年は昌泰の変やら色々あったので、夏に延喜(えんぎ)元年に改元されます。



次回は、菅原道真の左遷後におこなわれる、醍醐天皇による延喜の治(えんぎのち)を取り上げます。

画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B6%BC%E6%AE%BF%E8%90%BD%E9%9B%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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894年 遣唐使の派遣を停止する [年号のゴロ合わせ]

前回は、阿衡の紛議を取り上げました。
阿衡の紛議とは、藤原基経が宇多天皇に勅書を撤回させ、さらに橘広相の排斥に成功した事件でしたね。
このとき事態を収束させたのは、学者の菅原道真(すがわらのみちざね)です。
今日は、その菅原道真が建議した、遣唐使派遣の停止について見ていきます。



藤原基経が亡くなると、宇多天皇は関白を置くことなく、自ら政治をおこなうようになります。
藤原基経の息子である藤原時平(ふじわらのときひら)を、
まだ若いということもあって、関白に任命しなかったのです。
宇多天皇は、よっぽど関白という存在に懲(こ)りていたのでしょうね…(笑)

このように、摂政や関白をおかず、天皇自らがおこなう政治のことを、
親政(しんせい)とか天皇親政といいます。
宇多天皇の親政は、当時の元号をとって、とくに「寛平の治(かんぴょうのち)」と呼ばれます。

寛平の治では、優秀な人材がたくさん登用されます。
その1人が、菅原道真です。

菅原道真は、大学で紀伝道を教える文章博士(もんじょうはかせ)として活躍するほどの秀才で、
阿衡の紛議を収束させたあたりから、宇多天皇の信頼を得るようになります。
もしかしたら宇多天皇には、
菅原道真を重用することで、藤原北家の力を抑えてやろう…
なんて意図もあったのかもしれません。

さてその菅原道真。
894年に遣唐大使(けんとうたいし、遣唐使のリーダー)に選ばれます。
遣唐使については、奈良時代(5)にまとめてありますので、そちらもご覧下さいね。

遣唐使は、838年に派遣されて以来、50年以上途絶えています。
そこで、久しぶりに菅原道真をリーダーとして派遣しようということになったのです。

なぜこのタイミングだったのでしょうね…
ひょっとすると、宇多天皇の信頼あつい菅原道真を遠いところへ行かせてしまえ!という、
藤原時平の陰謀もあったのかもしれません。

ではここで、遣唐使に対する菅原道真の考えを見てみましょう。
久しぶりの史料です!

  諸公卿をして〔1   〕の進止(しんし、進退のこと)を議定(ぎじょう)せしめむことを請(こ)ふの状
右、臣某(〔2   〕のこと)、謹(つつし)みて在唐の僧中瓘(ちゅうかん)、去年(893年のこと)三月商客(商人のこと)王訥(おうとつ)等に附して到る所の録記を案ずるに、大唐の凋弊(ちょうへい、衰退すること)、之(これ)を載すること具(つぶさ)なり。(中略)臣等、伏して旧記を検(けみ)するに、度々の使等、或は海を渡りて命(めい)に堪(た)へざりし者有り、或は賊に遭(あ)ひて遂に身を亡(ほろ)ぼせし者有り。唯(た)だ、未(いま)だ唐に至りて難阻飢寒(なんそきかん、旅の困難や飢えや寒さ)の悲しみ有りしことを見ず。中瓘の申報(しんぽう)する所の如くむば、未然の事(将来のこと)、推(お)して知るべし。臣等伏して願はくは、中瓘の録記の状を以て、遍(あまね)く公卿・博士に下し、詳(つまび)らかに其(そ)の可否(〔1   〕の派遣の可否のこと)を定められむことを。国の大事にして、独り身の為(た)めのみにあらず。且(しばら)く款誠(かんせい、まごころのこと)を陳(の)べ、伏して処分を請ふ。謹みて言(もう)す。
  寛平六年(〔3   〕年のこと)九月十四日
  大使参議勘解由次官従四位下兼守左大弁行式部権大輔 春宮亮菅原朝臣某(〔2   〕のこと)
(出典『菅家文草』(かんけぶんそう))

空欄にあてはまる語句は分かりましたか?
 1…遣唐使
 2…菅原道真
 3…894

内容を簡単にまとめると、

去年、唐にいる中瓘というお坊さんが、商人らに託して送ってくれた記録には、
唐が衰退している様子が詳しく書かれていました。
そこで、遣唐使の過去の記録を調べてみると、
唐に渡って任務を果たせなかった者や、賊に襲われて死んだ者はありましたが、
唐に着いてから、旅の困難や飢えや寒さにみまわれる者はいませんでした。
中瓘の報告通りならば、これから遣唐使にどのような危険が生じるか分かりません。
どうか中瓘の記録を公卿や博士たちで検討し、どうぞ遣唐使派遣の可否を審議してください。
これは国家の大事であり、私個人の身の安全のために言っていることではありません。
よろしくお願いします。

となります。

中国にいるお坊さんから「唐はヤバいよ!」ということを聞いた菅原道真が、
遣唐使の派遣を停止するべきではないか、と建議しているのです。

事実、唐は755~763年に起きた安史の乱(あんしのらん)以降、その権威を低下させています。
さらに875年ごろには黄巣の乱(こうそうのらん)が起こり、
反乱を率いた黄巣は、唐の都である長安を陥落させ、斉(せい)という国を建てて皇帝となっています。
斉はわずか5年ほどで滅んでしまいますが、もはや唐の衰退は明らかです。
そんなところに、わざわざ航海の危険をおかしてまで行く必要はあるのでしょうか。

しかも、このころには唐の商人が日本にやって来る機会も増えていて、
わざわざ唐まで行かなくても唐の文物がたくさん日本に入ってきているのです。
さきほどの中瓘の手紙だって、商人の手を通じて菅原道真のもとに届いていますもんね。

それに、遣唐使の留学費用は基本的に唐が負担してくれるのですが、
自分の国がめちゃめちゃなのに、留学生の待遇なんてとても期待できないわけですよ。
唐に渡っても、苦しい留学ライフが待っているのは明らかです。

894.jpg

これは…
行きたくないですよね…
行きたくない。

そこで菅原道真は、先の史料のような建議をしたのです。
史料のなかでも言っているように、ただ自分が唐に行きたくないだけではなく、
もちろん国家のことを思っての建議です。
遣唐使を派遣するには、じょうぶな船も作らなければならないし、
唐に持って行く立派なお土産も用意しなければなりません。
つまり、遣唐使を派遣するには、莫大な費用がかかるわけです。
遣唐大使である菅原道真は、
果たしていま、そんな遣唐使を派遣する意味はあるのだろうか、
という疑問をぶつけたわけです。

結果、彼の意見は受け入れられ、894年に遣唐使の停止が決定します。
ただし、菅原道真は遣唐大使のままです。
いずれ唐が元気になるまで延期にしましょう、といったところでしょうか。

そうこうしているうちに、901年に菅原道真が大宰府へと左遷されてしまい、
さらに907年には唐が滅んでしまいます。
唐の滅亡により、遣唐使は事実上廃止となるのです。

それでは今日のゴロ合わせ☆

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次回は、菅原道真が左遷(させん)される様子を取り上げます。
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887年 阿衡の紛議が起こる [年号のゴロ合わせ]

前回は、藤原基経が光孝天皇から関白に任命される様子を見ていきました。
今日は、その光孝天皇の死後に起こる、阿衡の紛議(あこうのふんぎ)を取り上げます。



887年、光孝天皇が亡くなり、かわって息子の宇多天皇(うだてんのう)が即位します。

即位する前、宇多天皇は源定省(みなもとのさだみ)と名乗っていました。
父である光孝天皇が、子どもたちに源の姓を与え、皇族を離れさせたためです。
これは、「私は自分の子どもを次の天皇にしようだなんて思っていませんよ」というアピールです。
おそらく、藤原高子や陽成天皇などに気をつかったのでしょうね…

このように、皇族がその身分を離れ、姓を賜(たまわ)って臣下の籍に降(お)りることを、
臣籍降下(しんせきこうか)といいます。
これについては、またのちのち詳しくお話ししますね。

ちなみに、まもなく眞子さまがご婚約をなさるとのことですが、
現代では、皇族の女性が結婚してその身分を離れることを、皇籍離脱(こうせきりだつ)といいます。

源定省は、光孝天皇の危篤(きとく)にともない皇族に復帰し、皇太子となります。
そして、皇太子となったその日のうちに光孝天皇がこの世を去り、彼は宇多天皇となるのです。
臣籍降下した人物が天皇になるのは、初めてのことです。

やはり我が子を天皇にしたい、という父としての光孝天皇の願いと、
藤原高子の子(陽成天皇の弟)を天皇にしたくない、という藤原基経の意志がはたらいてのことでしょう。
それにしても、ほんっとに仲の悪い兄妹ですこと…

*   *   *

宇多天皇は、光孝天皇の時代と同じように、藤原基経に天皇の補佐をしてもらおうと考えます。
宇多天皇はすでに成人しているので、摂政はおけません。
そこで、関白に任命する勅書(ちょくしょ、天皇の手紙のこと)を藤原基経のもとへ届けます。
藤原基経にとって、待ちに待った勅書です。
ところが、藤原基経はこれを辞退するのです。

藤原基経は、引き続き関白をやりたいはずですよね?
すごくやりたいはずですよね??
それなのに、なぜ辞退したのかというと…

きまりだからです!!

天皇からエラい役職に任命されると、
「イエイエ、私がそんな役職に就くだなんてとんでもありません!」といったん断らなければならないのです。
すると、天皇から再び「イヤイヤ、この仕事を任せられるのはお前だけだから!受けてくれ!!」と手紙が来ます。
そこでようやく「そうですか…そこまでおっしゃるのならば…お受けいたします!」と、なるのです。

887.jpg

めんどくさっ!めっちゃめんどくさっ!!(笑)
とりあえずね、貴族の社会ではね、どんなにやりたい仕事でもね、飛びついてはいかんのですよ!
それが貴族の美学とゆーやつなのですよ!!

ということで、いったん関白を辞退した藤原基経のもとに、2度目の勅書が届きます。
ヤッター!これで関白になれるゾー!っと思って勅書を読むと…
なんと、そこに「関白」の文字がないのです!
かわって「宜(よろ)しく阿衡(あこう)の任(にん)をもって卿(きょう)の任(にん)とせよ」とあるのです!

アコウ?
なにそれ??
ですよね。

阿衡とは、殷(いん)の時代の役職です。
殷ですよ!殷!!
中国で一番古い王朝です!!!
(中国の王朝の順番については、弥生時代(4)で確認しておいてください)
しかも、すごく地位の高い役職ではあるのですが、とくに仕事はない、というものなのです。
まぁいわゆる名誉職ってやつですね。

これに怒った藤原基経は、仕事を放棄して自宅に引きこもってしまいます。
そして、この勅書の文を考えた橘広相(たちばなのひろみ)という人物を罷免するよう訴えます。

いままで関白としてバリバリ働いてきた藤原基経のストライキによって、
政治はまったく動かなくなってしまいます。
困り果てた宇多天皇は、翌888年にやむなく2通目の勅書を取り消し、橘広相を罷免します。
しかし、それでも怒りのおさまらない藤原基経は、さらに橘広相を流罪にするよう訴えるのです。

怖すぎるよ、藤原基経……

いくらなんでもそれはやりすぎだろうと考えた秀才と名高い菅原道真(すがわらのみちざね)が、
藤原基経をなだめることになんとか成功し、事態はようやく収束します。
このあと藤原基経は、関白として宇多天皇を補佐してゆくのです。

以上が、阿衡の紛議です。
または阿衡事件(あこうじけん)ともよばれます。

それにしも、藤原基経はなぜここまでゴネたのでしょうか…

実は、橘広相の娘は宇多天皇と結婚していて、男の子を産んでいるのです。
もしその子が天皇になったら…?
そう、橘広相は天皇の外戚となるわけです。
藤原基経はそれを阻止するために、ゴネたのかもしれません。
果たして橘広相に、藤原基経の権力をそいでやろうなんて意図はあったのでしょうかね…

さらに阿衡の紛議は、橘広相の排斥に成功しただけでなく、
藤原基経は宇多天皇を思い通りに動かせるんだ、ということも世間に知らしめたのです。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

887年.jpg
 ↑藤原基経が持っているのはワラ人形ですよ、念のため(笑)

891年に藤原基経が亡くなると、宇多天皇は次の関白を任命せず、自ら政治をおこないます。
関白という存在が、よっぽど面倒だったのでしょうね…(笑)
かわって宇多天皇は、さきほど登場した菅原道真を重用するようになるのです。



次回は、その菅原道真が建議した、遣唐使派遣の停止について取り上げます。
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884年 藤原基経が関白に就任する [年号のゴロ合わせ]

前回は、応天門の変によって伴氏・紀氏といった有力者を排斥することに成功した藤原良房が、
臣下で初めて摂政に就任したことをお話ししました。
今日は、藤原良房の「息子」である藤原基経(ふじわらのもとつね)が、
関白(かんぱく)に就任する様子を見ていきましょう。



さきほど藤原基経のことを、藤原良房の「息子」と紹介しましたが、実の息子ではありません。
藤原良房には息子がおらず、お兄ちゃんの息子、すなわち甥っ子を養子とします。
それが、藤原基経なのです。

872年、藤原良房がこの世を去り、藤原基経が藤原北家を率いてゆくようになります。
その4年後、清和天皇は、息子の陽成天皇(ようぜいてんのう)に譲位します。
陽成天皇は、藤原基経の妹である藤原高子(ふじわらのたかいこ)が産んだ子です。
このときわずか9歳。
と、いうことで!
おじさんである藤原基経が、陽成天皇の摂政をつとめます。

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ところが、陽成天皇は成長するにつれ、次第に藤原基経との関係を悪化させてゆきます。
その一因は、どうやら藤原基経と藤原高子の仲の悪さにあるようです。

*   *   *

藤原長良(ふじわらのながら、または、ふじわらのながよし)の娘として生まれた藤原高子は、
いずれ天皇の奥さんになるべく、藤原北家の手で大切に育てられます。
やがて彼女は美人で聡明な女性に成長し、
文徳天皇の時代には、おばさんである藤原順子のもとで暮らすようになります。

当時の権力者である藤原良房は、
いずれ藤原高子を、皇太子である孫(のちの清和天皇)の奥さんにしようと目論んでいたのです。

ちなみに、順子おばさんは、文徳天皇のお母さんですよ。
ややこしいので、上の系図でいったん頭を整理しておいてくださいね。

ところが!
そんなとき!!

藤原高子に彼氏ができます。

彼氏とは、『伊勢物語』の主人公とされる人物なのですが、
誰だか分かりますか?

正解は、在原業平(ありわらのなりひら)です。
『源氏物語』の主人公 光源氏のモデルとも言われる、超イケメンです!

結婚形態が妻問婚である平安時代、
貴族の恋愛は、彼氏が彼女の家を夜な夜な訪ねる、というのが基本です。
といっても、いくらなんでも藤原順子の家を堂々と訪ねるわけにはいかないので、
在原業平は壁が崩れている部分(天皇のお母さんの家なのにね…崩れてるんですね……)から
密かに侵入するわけです。

在原業平は、平城太上天皇の孫にあたる高貴な身の上なのですが、
薬子の変などのあおりを受けて、このころ政界から干されている状況です。

藤原北家としては、天皇の奥さんになってもらおうと考えている藤原高子が、
そんな男とイイ感じになっているなんて、許せることではありません。
禁断の恋のすえ、2人はなんと駆け落ちしてしまいます。
ところが、兄の藤原基経らによってすぐに発見され、連れ戻されてしまうのです。

884.jpg

結果、在原業平は東国に追放されてしまいます。
一方の藤原高子はというと、25歳のときに16歳の清和天皇と結婚し、子を産みます。
その子はなんと、生後3ヶ月で皇太子となるのです。

そんなころ、藤原高子と在原業平は宮中で再会します。
そのとき、在原業平が詠んだ和歌こそ、

ちはやぶる かみよもきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは

という、百人一首にも選ばれている有名なものです。

この和歌については、杉田圭さんの『うた恋い。』という漫画におもしろく描かれていますので、
そちらをぜひお読みくださいませ。
萌えますよ。

*   *   *

話を陽成天皇と藤原基経の関係に戻しましょう。

先ほど登場した、生後3ヶ月で皇太子となった赤ちゃんこそが、のちの陽成天皇です。
繰り返しになりますが、9歳で即位した彼を、おじさんの藤原基経が摂政として補佐します。
しかし、清和上皇が亡くなったころから、藤原高子と藤原基経は対立するようになり、
藤原基経と陽成天皇の関係も次第にこじれてゆくのです。
そうして、摂政である藤原基経は、朝廷に顔を出さないようになってしまいます。

そんなおり、宮中で殺人事件が起こります。
天皇のそばに仕えていた人物が、何者かに殴り殺されたのです。
やんちゃな性格の陽成天皇が、この事件にかかわっているのではないかという噂が流れ、
陽成天皇は退位を余儀なくされてしまいます。

さぁ!では、次の天皇は誰なのでしょう…

藤原基経としては、藤原高子や陽成天皇の息のかかった人物はイヤなわけです。
そこで目をつけたのが、仁明天皇の息子です。

え?
仁明天皇??

ハイ、系図で確認しておきましょう。

884-2.jpg

いや~、藤原基経、えらいところから引っ張ってきましたね!(笑)
彼、このとき55歳です。
平安時代の年齢に1.5をかけた数字が、だいたい現代人の年齢になる、という説があるのですが、
これを当てはめると、55歳×1.5=82歳です。
かなりのおじいちゃんであることが分かりますね。

そんなおじいちゃんですからね。
もう自分が天皇になる日なんて来ないと思っていたわけです。
まさか自分が天皇になる日が来るなんて思ってもみなかったわけです。

それなのに、藤原基経の猛プッシュによって即位し、光孝天皇(こうこうてんのう)となります。
ちなみに、藤原基経のお母さんと、光孝天皇のお母さんは姉妹なので、
藤原基経と光孝天皇はいとこです。

光孝天皇は、こんな老いぼれを天皇に抜擢してくれた藤原基経をぜひ摂政にと思うのですが、
摂政は天皇が幼い場合や、女性である場合に置かれる役職です。
考えてみれば、自分は大概ええトシなのですよ。
摂政置くとかできないわけですよ。
ならば、成人した天皇を補佐する役職を、新たに設ければよいのです!

こうしてつくられたのが、関白です。
「関(あずか)り白(もう)す」というのが語源で、
天皇に申し上げたいこと、または天皇が言いたいことを文書にしたものを、
あらかじめ目にするのが主な仕事です。
もちろん律令にはない新設の官職ですので、令外官(りょうげのかん)ですよ!

こうして、藤原基経は初めて関白に任命されるのです。

ちなみに私、大学生のころは幕末期の関白を研究しておりました。
え?幕末に関白っているの??と疑問に思うかもしれませんが、
1868年に王政復古の大号令で廃止されるまで、関白(摂政)は脈々と続いておるのですよ。
存在感ないですけどね!(笑)

それでは、今日のゴロ合わせ☆

884年.jpg



光孝天皇は、わずか3年でこの世を去ってしまいます。
次回は、彼の死後に起こる、阿衡の紛議(あこうのふんぎ)を取り上げます。
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866年 応天門の変が起こる [年号のゴロ合わせ]

前回に続いて、藤原氏による他氏排斥事件を見ていきます。
今日は、866年に起きた応天門の変(おうてんもんのへん)を取り上げます。



842年に起きた承和の変によって、藤原良房の甥っ子である道康親王が皇太子となります。
藤原良房は、すかさず娘の藤原明子(ふじわらのめいし、または、ふじわらのあきらけいこ)を、
道康親王の奥さんにします。
イトコとの結婚ですからね、藤原良房、なかなか必死です…

850年、道康親王は即位し、文徳天皇(もんとくてんのう)となります。
そのわずか4日後、藤原明子は男の子を出産します。

さて、この赤ちゃん。
どこで生まれたかわかりますか?
前回もお話ししましたが、当時の出産・育児は、基本的にお母さんの実家でおこなわれます。
ということで、赤ちゃんは藤原良房の家で生まれ、育てられるのです。

藤原良房としては、この赤ちゃんに、どうしても天皇になってもらいたいのです。
なんてったって、一緒に暮らすかわいいかわいい孫ですからね。
もし天皇になったら、大好きな良房おじいちゃんの願いを何でも叶えてくれそうじゃないですか!

ちなみに、お母さん側の親戚を、外戚(がいせき)といいます。
藤原良房は、娘を天皇と結婚させ、その間に生まれた孫(外孫・がいそん)を天皇とし、
自らは天皇のお母さん側のおじいちゃん(外祖父・がいそふ)として権力を握ろうとしているのです。

文徳天皇には、すでに3人の息子がいるのですが、
藤原良房はあらゆる手段を駆使しまくって、藤原明子が産んだ孫を皇太子とします。
このとき孫は生後8ヶ月。
8ヶ月って、ハイハイできるようになったかな~…ぐらいの月齢ですよ。
そんな赤ちゃんが皇太子って!
とんでもないゴリ押し!!
まわりはドン引きだったでしょうねぇ…
でも藤原良房は、そんなことはお構いなしです。
念願かなって、孫が次の天皇になることが決まったわけですからね。

8年後、文徳天皇が急死し、皇太子である藤原良房の孫が清和天皇(せいわてんのう)となります。
清和天皇、何歳か分かりますよね?
9歳ですよ、9歳!
小学生です!!
もちろん政治なんてできるわけがありませんので、天皇の補佐官が必要になります。

さて問題。
天皇が幼少のときに置かれる補佐官は何ですか?

簡単ですよね?
答えは摂政です。

ではもう1つ問題。
清和天皇の摂政には誰が就任するでしょうか?

答えは、大好きな藤原良房おじいちゃんです。

と!言いたいところですが!!

そう簡単にはいきません。
なぜなら、摂政に就任できるのは皇族だけだからです。

藤原良房は、娘を天皇と結婚させたりしていますが、自らは天皇の血をひいていません。
そもそも藤原氏は中臣鎌足の子孫ですので、天皇の臣下(しんか)の家柄です。
天皇の親戚である皇族ではありません。
つまり、藤原良房は摂政にはなれないのです。

ところが、清和天皇の外祖父である藤原良房は、太政大臣としてかわいい孫を補佐し、
摂政の役割を実質的に果たしてゆくのです。

866-1.jpg

それにしても、文徳天皇はどうして突然亡くなってしまったのでしょうね…
脳卒中だったと伝わっていますが、
ひょっとして…!
藤原良房が……!!
なんてつい考えちゃいますが、真相は分かりません。

*   *   *

清和天皇の即位から8年後に起きるのが、応天門の変です。

おもな登場人物は、大納言の伴善男(とものよしお)と左大臣の源信(みなもとのまこと)です。
さてこの2人、どちらがエラいか分かりますか?
分からない人は、飛鳥時代(8)のプリントで確認してくださいね。
大納言より左大臣の方がエラいので、伴善男より源信の方がエラいです。
このころ、左大臣である源信は、太政大臣の藤原良房に次いで政界のナンバー2なのです。

出世したい伴善男は、そんな源信のことをどうやらすごく嫌っていて、
なんやかんやと源信のよくないウワサを流したりしていたようです。

*   *   *

866年のある春の日の夜、朝廷でたいへんなことが起こります。
朝堂院の正門である応天門が、突如として炎上したのです。

応天門といえば、平安時代(4)で登場しましたね。
空海の豪腕伝説の舞台となった、あの門です。

火の気のないところから出火したこと、しかも朝廷にある門が炎上したこと、
これらは世間に大きな衝撃を与えます。
なかでもとくにショックを受けたのが、伴善男です。
なぜなら、応天門は伴氏が造営したものだからです。

伴氏がもともと大伴氏であったことは、承和の変のところで紹介しましたね。
大伴氏が作った門なので
オオトモモン→オオ○モモン→オオテ×モン→オオテンモン→応天門という名前になったんだとか。
なんか途中だいぶ無理があるように思いますけど(笑)、これが由来なのだそうです。

というわけで、応天門は伴氏にとって特別なものなのです。
それが燃えたわけですから、伴善男のショックは相当です。

伴善男は、源信が応天門に放火したに違いない!と訴えます。
まぁね、伴善男は源信のこと嫌っていますしね。
源信も、伴善男からあることないこと言われて嫌っていたでしょうしね。

866-2.jpg

伴善男の告発によって、源信は放火の容疑者となり、
彼の屋敷は朝廷の兵によって取り囲まれてしまいます。

ところが、ほどなくしてこの包囲は解かれます。
どうやら藤原良房が、伴善男の告発には証拠がない、と清和天皇に訴えたようです。
では一体誰が応天門に火をつけたのでしょうか。
犯人が分からないまま、時間が過ぎてゆきます……

*   *   *

応天門の炎上から、5ヶ月が経ったある日のこと。

大宅鷹取(おおやけのたかとり)という人物が、重要な証言をします。
応天門が炎上したとき、伴善男と息子の伴中庸(とものなかつね)、そして紀豊城(きのとよき)の3人が
現場から走り去るのを見たと言うのです。

この証言により、伴善男らは捕らえられ、厳しい取り調べを受けます。
なかなか罪を認めない伴善男ですが、ついには自白したようで、伊豆国に流罪となります。
また、息子の伴中庸のほか、紀豊城や兄の紀夏井(きのなつい)らもそれぞれ流罪となってしまいます。

これが応天門の変です。

応天門の変によって、伴氏や紀氏といった有力者が政界を去り、
藤原良房は朝廷でますます大きな力を得ることになります。
事件のさなか、藤原良房は清和天皇から正式に摂政に任命されるのです。
臣下で摂政に任命されるのはもちろん初めてのことで、
以降、藤原北家がこの役職を担うことになります。
外戚関係、おそるべし…

ちなみに、源信はこの事件によって人間不信となり、誰とも会わない日々を送ります。
3年後、いつまでも引きこもっていてはいけない!と一大決心をして狩りに出かけてみたところ、
馬から落ちて泥の中にはまってしまい、命を落としてしまいます…
か…かわいそすぎる……

大納言の伴善男が流罪となり、左大臣の源信がこんな形で亡くなり、
右大臣の藤原良相もほどなくして亡くなっているので(838年のゴロ合わせで登場した、小野篁に一度命を救われた人です)、
摂政となった藤原良房は向かうところ敵なしです!
藤原良房、そして藤原北家はますます力をつけてゆくのです。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

866年.jpg

ちなみに、応天門の変の様子を描いたのが、
院政期に成立する「伴大納言絵巻(ばんだいなごんえまき)」です。
伴大納言とは、大納言の伴善男をさします。
詳しくは、のちのち院政期の文化のところでご紹介します。

それにしても、一族にとって大切な応天門に火をつけたのは本当に伴善男なのでしょうか…
なぜ事件から5ヶ月も経ってから目撃証言が出たのか。
なぜ事件から300年も経った院政期に立派な絵巻が描かれたのか。
謎は深まるばかりです…



次回は、藤原良房の養子である藤原基経が関白に就任する様子を、
ゴロ合わせとともにお届けします。
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842年 承和の変が起こる [年号のゴロ合わせ]

今日から、藤原北家による他氏排斥(たしはいせき)の様子を、ゴロ合わせとともに見ていきます。
最初は、承和の変(じょうわのへん)です。



823年、嵯峨天皇は弟の大伴親王(おおともしんのう)に譲位し、
嵯峨天皇は嵯峨上皇、大伴親王は淳和天皇(じゅんなてんのう)となります。

10年後、淳和天皇は退位し、かわって嵯峨上皇の息子が仁明天皇(にんみょうてんのう)となります。
このとき、淳和上皇の息子である恒貞親王(つねさだしんのう)が皇太子となります。

天皇の位というのは、たいてい親から子に譲られるものですが、
ここでは兄→弟→甥っ子→イトコと、ジグザグに皇位が継承されようとしています。
ややこしいので、ちょっと系図で確認しておきましょう。

842-1.jpg

系図の左の方を見てください。
天皇の位は、①嵯峨天皇→②淳和天皇→③仁明天皇と受けつがれ、
次は皇太子である恒貞親王が即位する予定です。

ところがその恒貞親王、なんだか浮かない様子ですね…
どうやら、仁明天皇の息子である道康親王(みちやすしんのう)の存在が気になるようです。

仁明天皇は、いとこの自分ではなく、やっぱり息子の道康親王に天皇の位を譲りたいんじゃないかな…
と、恒貞親王は悩みます。
しかも、道康親王のお母さん側の親戚から、彼を即位させたいという欲望がむんむんに感じられるのです。

道康親王のお母さんは、藤原順子(ふじわらののぶこ)です。
薬子の変によって藤原北家の力を確固たるものとした、あの藤原冬嗣の娘です。

奈良時代(4)でも触れましたが、このころの結婚形態は妻問婚(つまどいこん)です。
出産&育児は、たいていお母さんの実家でおこなわれます。

ということは…
道康親王はどこで生まれ、どこで育てられたか分かりますね?

答えは、お母さんの実家である藤原冬嗣の家です。
道康親王が生まれたとき、藤原冬嗣はすでに亡くなっており、
かわって息子の藤原良房(ふじわらのよしふさ)が、嵯峨上皇の信頼を得て権力をのばしています。
藤原良房としては、妹の藤原順子が産んで、藤原北家で育てている甥っ子が天皇になれば、
なんかいろいろイイコトありそう!と思っちゃうわけです。

どうにかして道康親王を天皇にしたい。
そのためにも、まずは皇太子にしたい。

そんな藤原良房たちの気持ちに、恒貞親王は気付きます。
そして藤原北家にとって、皇太子である自分がめちゃくちゃ邪魔な存在であることも理解します。
このまま皇太子の座についていると、藤原北家にナニかされるのではないか…と、
不安にかられる恒貞親王は、お父さんである淳和上皇に相談します。
すると、淳和上皇も同じように息子のことを心配していたのです。

そこで淳和上皇と恒貞親王は、親子そろって嵯峨上皇のところにゆき、
皇太子をやめさせてほしい、と訴えます。
上皇と皇太子にそんなことをさせてしまうなんて、藤原北家の圧力はよっぽどだったのでしょう…

ところが、嵯峨上皇からは「大丈夫大丈夫!もしものときは私が守ってやるから!!」との返事。
何度か辞意を伝えてみたものの、嵯峨上皇は引きとめるばかりです。

そんななか、淳和上皇がこの世を去ります。
さらに2年後、嵯峨上皇も病に臥せってしまいます。

これに危機を感じたのが、恒貞親王に仕える伴健岑(とものこわみね)という人物です。

この人、大伴氏の1人です。
淳和天皇が即位するさい、大伴氏は伴氏へと名前を改めています。
なぜなら、先にも述べたように、淳和天皇の名前が大伴親王だからです。
天皇と同じ名前を名乗るなんて畏(おそ)れ多すぎます!ということで、
大伴氏の「大」をとって、伴氏としたわけです。

その伴健岑には、すごく字の上手な友人がいます。
三筆の1人である橘逸勢です。
平安時代(4)に登場した人物ですので、復習しておいてくださいね。

恒貞親王の身を心配する伴健岑は、友人の橘逸勢とともに、
恒貞親王を東国に脱出させる計画をたてます。
ところが、この計画が藤原良房の耳に入ってしまうのです…

結果、嵯峨上皇が亡くなると、伴健岑と橘逸勢は謀反人(むほんにん)として捕らえられ、
伴健岑は隠岐に、橘逸勢は伊豆に流罪となります。
(隠岐と伊豆の場所が分からない人は、飛鳥時代(11)で確認ですよ!)
さらに恒貞親王は、皇太子の座をおろされてしまいます。
このように、皇太子の座を廃されることを、廃太子(はいたいし)といいます。

842年に起きた以上のできごとを、当時の年号をとって承和の変といいます。
承和の変ののち、藤原良房は中納言から大納言に昇進し、
恒貞親王にかわって道康親王が皇太子となります。

842-2.jpg

8年後、仁明天皇が譲位し、道康親王は文徳天皇(もんとくてんのう)となります。
ついに藤原良房の念願がかない、かわいい甥っ子が天皇となったのです!
しかし、藤原良房はこんなことで満足するような人間ではありません。
もっともっとすごいことを考えているのです…

次回につづく。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

842年.jpg

これから色んな人が排斥されてゆくので、
承和の変は、「トモ(トモのこわみね)ダチ(タチばなのはやなり)」で覚えてくださいね。



次回は、2つ目の他氏排斥事件である応天門の変を、ゴロ合わせとともにお届けします。
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838年 最後の遣唐使を派遣する [年号のゴロ合わせ]

久々のゴロ合わせです。



今日は最後の遣唐使について見ていきます。
まずは、遣唐使についてまとめた奈良時代(5)のプリントを見てください。

奈良5.jpg

プリントを見ると、遣唐使が最後に派遣されたのは、838年であることが分かりますね。
といってもコレ、あまり覚える必要のない年号です。

遣唐使については、
最初に派遣した630年と、
菅原道真(すがわらのみちざね)が停止を建言した894年を覚えていればOKです。

ではなぜゴロ合わせをつくったのか…
それは、小野篁(おののたかむら)という人物を紹介したいからです!

彼は、607年に中国に渡った遣隋使である小野妹子の子孫で、
美女として有名な小野小町(おののこまち)のおじいちゃんにあたる人物です(諸説あります)。
百人一首の1つに選ばれた、
「わたの原(はら) 八十島(やそしま)かけて 漕(こ)ぎ出(い)でぬと
 人(ひと)には告(つ)げよ 海人(あま)の釣船(つりぶね)」
という和歌をつくるなど、たいへん優秀で、
嵯峨天皇・淳和天皇(じゅんなてんのう)・仁明天皇(にんみょうてんのう)・文徳天皇(もんとくてんのう)と、
4代の天皇に仕えます。

その小野篁。
嵯峨天皇の時代にたいへんな出来事にまきこまれます。

あるとき、内裏に「無悪善」と書かれた看板が立てられます。
けしからんことですが、それにしてもこの3文字、一体どう読むのかサッパリ分からない…
困った嵯峨天皇は、優秀な小野篁を呼び寄せます。
そこで小野篁は、これをサラリと「さが(悪)なくてよからん」と読んでみせたのです。
まさかまさか、「これ、“嵯峨天皇なんていなければいいのに!”って書いてるんですよ」と、
嵯峨天皇本人の前で言ってしまったのです。

小野篁は、読めと命じられたので読んだまでですが(でもちょっと空気読もうよ…)、
「こんな難しい文をサラリと読むなんて…さてはこの看板、お前が書いたんやろ!」と、
嵯峨天皇にキレられてしまいます。
おどろいた小野篁は、「イエイエ!私はどんな難しい文でも読めるのです!!」と、
秀才にしかできない釈明をします。
すると、嵯峨天皇から「ならばこれを読んでみろ!」と、超難問が出題されます。

「子子子子子子子子子子子子」

子が12個です。

これを小野篁は、「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と、またもやサラリと読んでしまうのです。
「子」という漢字は、「こ」とか「し」と読むほか、干支(えと)のように「ね」とも読みますよね。
その3種類の読み方をうまいぐあいに組み合わせ、
「ねこのこのこねこ、ししのこのこじし」と読んでみせたのです。
私なら間違いなく「ここここここここここここ!!」って読みますけどね。
小野篁のあまりの秀才ぶりに、嵯峨天皇の怒りもとけてしまったとか。

このエピソード、真実かどうかはさておき、古典の授業で習いませんでしたか?
『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)』などに載っている有名なものです。

また、小野篁には、エンマ様の補佐官を務めていた、という伝説があります。
ウソをついたら舌を抜くという、あのエンマ様です。

小野篁は、昼は朝廷の役人として働き、夜は地獄でエンマ様に仕えていたというのです。
まさかのダブルワーク!

京都に六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)というお寺があるのですが、
そこの井戸が地獄への入口だったそうです。

DSC00471.JPG

現在も井戸は残っていますが、近づくことはできません。
うっかり落ちて地獄に行ってしまってはたいへんですからねー!(笑)

あるとき、藤原良相(ふじわらのよしみ)という人物が亡くなります。
人は死んだ後、三途の川(さんずのかわ)を渡って、エンマ様などの裁きを受けるそうで、
藤原良相も例にもれず、川を渡って、エンマ様の前に進みます。
この裁判では、生前の悪行をふまえてどの地獄に配属されるのかが決定するので、
もうドキドキなわけですよ。
そんななか、ふと前を見ると、知った顔があるのです。
エンマ様の隣に、まさかまさか、小野篁がいるではないですか!

藤原良相には、当時まだ学生であった小野篁が罪を犯したとき、
弁護してあげたという過去があります。
(罪の内容は伝わっていません。一体何をしでかしたのか…すごい気になる……)
そんな二人が、地獄で再会したのです。

藤原良相がびっくりしていると、
小野篁はエンマ様に向かって、「この人はすごくいい人なので、生き返らせてください」と言います。

えー!小野篁ってそんな権限もってんの?すごくない??
というわけで、藤原良相は生き返ったのです!

838.jpg

後日、朝廷で小野篁に出会った藤原良相は、この件について尋ねます。
すると、「昔、私を弁護してくださったお礼をしただけです。このことは誰にも言わないように…」との返事。
とんでもない経験をした藤原良相は、「人に対して、まっすぐでないといかん」と説いて回ったそうな…

これ、『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』に載っているエピソードです。
てことは、藤原良相ったら、小野篁の秘密を誰かにしゃべっちゃったんでしょうねぇ…
本に載っちゃってますもんねぇ…

ちなみに、六道珍皇寺には、小野篁がつくったというエンマ様の木像があります。
これがめちゃくちゃ怖い。
会ったことのある人がつくったと言うんだから、エンマ様ってそんな感じなんでしょうねぇ…
それにしても、彫刻まで上手につくっちゃうなんて…
天才すぎるぞ、小野篁!!

なお、地獄の出口はというと、これまで色々と説があったのですが、
最近、入口のすぐ近くで井戸が発見されたそうです。
これが出口なのでしょうか…
ま、入口と出口が遠かったら大変ですもんね。

*   *   *

さて、前置きが長くなりました。
最後の遣唐使について見ていきましょう。

838年、小野篁は遣唐使のサブリーダーに任命されます。
実はこれ、3回目。
すでに前々年・前年と2回海を渡ろうとしたものの、いずれも失敗していたのです。

「3度目の正直!」ということで、遣唐使のために4隻の船が用意され、
遣唐使のリーダーである藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)は1つ目の船に、
サブリーダーの小野篁は2つめの船に乗ることとなります。

ところが、1つ目の船は水漏れすることが判明!
そこで藤原常嗣は、自分の乗る船を、2つ目の船と交換します。

ということは…

水漏れする船には、小野篁が乗ることになったのです!!

こ、これはやってられん……

小野篁は怒って乗船を拒否したため、遣唐使は小野篁を置いて中国に渡ります。
このとき、遣唐使の1人としてなんとか中国にたどり着いたのが円仁です。

日本にのこった小野篁は、NGワードをふんだんに盛り込んだ漢詩をつくって遣唐使を風刺し、
嵯峨上皇の怒りに触れて流罪となってしまいます。
ちなみに、前述した百人一首に選ばれた和歌は、隠岐に流される際につくったものです。

その後、2年ほどで罪が赦(ゆる)され、再び平安京に戻ってばりばり働いたようです。

ということで、今日のゴロ合わせ。

838年.jpg



次回から、藤原氏による他氏排斥祭りを見ていきます。
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雅楽の発表会のポスターを描きました☆ [その他]

毎年3月におこなわれる、雅楽練習所の発表会のポスターを描きました。

お近くの方、ご興味のある方、おられましたらぜひどうぞ☆
入場無料です。

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平安時代(4) [まとめプリント]

前回に引き続き、弘仁・貞観文化を見ていきます。



平安4.jpg

まずは建築です。

弘仁・貞観文化で覚えるべき寺院は1つ、
奈良にある室生寺(むろうじ)です。

奈良といっても、東大寺や興福寺がある奈良市ではありません。
室生寺は、そこから電車とバスを2時間ほど乗り継いだ、宇陀市(うだし)の山の中にあります。
山の中ですので、「○○式伽藍配置」というような形式は通用しません。
プリントにある①室生寺金堂や②室生寺五重塔は、
山の地形に応じた場所に、点々とつくられています。

このころには、檜皮葺(ひわだぶき)や杮葺(こけらぶき)の屋根がつくられるようになっています。
檜皮葺というのは、漢字のまんま、檜(ひのき)という木の表面の皮を、屋根として重ねていく技法です。
一部分だけ見ると、こんな感じです。
DSC01773.JPG
うすくスライスした檜の皮を、ずらしながら積み重ねていっている様子が分かりますか?
プリントにある②室生寺五重塔の屋根はまさにこの檜皮葺です。

ちなみに、室生寺五重塔は高さがおよそ16mと、屋外にあるものとしては日本で1番小さい五重塔です。
あまりの小ささに、「空海が一晩で作り上げた」、なんてウワサもあったりします…
前回に引き続き、空海の豪腕っぷりがハンパない…(笑)

一方の杮葺は、杉などの木でつくった2ミリほどのうす~い板を、
屋根になるよう、ずらしながら積み重ねていく技法です。
プリントにある①室生寺金堂は、もとは檜皮葺であったようですが、現在はこの杮葺です。

なお!
「杮(こけら)」の漢字は、くだものの「柿(かき)」という漢字とは異なります。
「柿(かき)」は9画ですが、「杮(こけら)」は8画なのです!
いや~…見た目は同じなんですけどね~…
一体どこが違うのかは、一番下にある解答のプリントでご確認下さい~。

続いて、書道を見ていきましょう。

弘仁・貞観文化のころ、3人の能書家(のうしょか)が活躍します。
能書家というのは、字がめっちゃきれいな人のことです。

嵯峨天皇
空海
橘逸勢(たちばなのはやなり)、

彼らをまとめて三筆(さんぴつ)と呼びます。
プリントで、3人が書いた文字を見てみてください。
なんか分かりませんけど、字、めっちゃきれいですよね!
彼らに共通するのは、唐風(とうふう)の力強い文字を書く、ということです。
なんか分かりませんけど、そういうことなんだそうです!!
(書道を習っている人になら分かることなのでしょうか…私にはサッパリです!!)

ところで、前回もチラっと登場した「弘法にも筆の誤り」という言葉、ご存知ですか?
「どんな達人でも、時には失敗することがあるサ!」という意味のことわざです。
弘法とは、弘法大師、そう、空海のことです。
空海が字の達人だということが、ことわざとして今に残っておるのです。

では、空海は得意の筆で、一体何を誤ったのでしょうか?

平安京の大内裏の中に、朝堂院(ちょうどういん)という重要な建物があります。
その入り口にあるのが、応天門(おうてんもん)という門です。
現在、京都にある平安神宮(へいあんじんぐう)の正面の門として、復元されています。
DSC00477.JPG
こんな感じです。
ただし、5/8スケールでの復元ですので、オリジナルの応天門はもっと大きかったようです。

あるとき、達筆で知られる空海は、この門の正面を飾る看板に、「応天門」と書くよう依頼されます。
↓ これです、これ。
DSC00478.JPG
「応」の漢字は、昔の難しい「應」の漢字になっていて、「應天門」と書かれているのが分かりますね。
空海は、これを書くことになったのです。

空海は、さすがの筆で作品を見事に書き上げます。
そして、完成した看板を応天門の正面にかかげたところ…

ん?
んん??

空海ったら、漢字間違ってるんですよ!
「應」の漢字の「广(まだれ)」を、「厂(がんだれ)」にしてしまってるのですよ!!

いや、フツー1画目から間違うか?というツッコミは置いといて、
空海はこれをすかさず修正します。

看板をわざわざ地面におろして点を書き加えた…のではありません!
まさかまさか、空海は墨をふくませた筆を看板に投げつけて、正しい漢字になおしたのです!!

平安4-1.jpg
出たー!
空海の豪腕伝説パート2!!
(パート1はこちらをご覧ください。それにしても空海ったら色んなもの投げますね…)

これが「弘法にも筆の誤り」ということわざができた由来です。
なお、応天門はのちのち重要な事件の舞台として登場しますので、それまで覚えておいてくださいね~。

ちなみに、空海の書としてプリントで紹介したのは、最澄に送った手紙の一部です。
「風信雲書…」で始まる手紙なので、これを「風信帖(ふうしんじょう)」と呼びます。
「風」の文字は読み取れますね。

次に、彫刻をザッとまとめて見ていきましょう。

①室生寺弥勒堂 釈迦如来坐像(むろうじみろくどう しゃかにょらいざぞう)
②室生寺金堂 釈迦如来像(むろうじこんどう しゃかにょらいぞう)
③神護寺 薬師如来像(じんごじ やくしにょらいぞう)
④元興寺 薬師如来像(がんごうじ やくしにょらいぞう)
⑤教王護国寺 不動明王像(きょうおうごこくじ ふどうみょうおうぞう)
⑥薬師寺 僧形八幡神像(やくしじ そうぎょうはちまんしんぞう)
⑦薬師寺 神功皇后像(やくしじ じんぐうこうごうぞう)
⑧法華寺 十一面観音像(ほっけじ じゅういちめんかんのんぞう)
⑨観心寺 如意輪観音像(かんしんじ にょいりんかんのんぞう)

いずれも、一木造(いちぼくづくり)の作品です。
一木造とは、1本の木を彫って、1体の仏像をつくる、という技法です。
一本造じゃないですよ、一木造ですからね!

また、仏像が身につけている衣服のシワが、
翻(ひるがえ)る波のように美しく表現されているのも、このころの彫刻の特徴です。
これを翻波式(ほんぱしき)と呼びます。

なお、⑥薬師寺 僧形八幡神像と⑦薬師寺 神功皇后像は、神仏習合を反映した彫刻です。
いずれも薬師寺の南門のすぐ前につくられた休ヶ岡八幡宮(やすがおかはちまんぐう)という神社にある、
神さまの像です。
⑥は、八幡神(はちまんしん)という神さまですが、見た目はお坊さん(これを僧形といいます)です。
まさに神仏習合ですね。
⑦の神功皇后(じんぐうこうごう)というのは、倭の五王のちょっと前の時代に活躍した女性です。
実在したのかどうか今でも学説が分かれる人物ですが、
休ヶ岡八幡宮では、神さまとして⑥の隣にお祀りしています。

最後に、絵画を見ておきましょう。

①曼荼羅(まんだら)
漢字、気をつけてくださいね!
2文字目は「茶」ではありません、「荼」です。
くれぐれも「まんちゃら」と書かないように…

密教は、すごく奥が深くてなかなか言葉であらわすことは難しい、ということで、
その世界を目で見て理解できるようイラスト化したものが曼荼羅です。

胎蔵界曼荼羅は『大日経』(だいにちきょう)、金剛界曼荼羅は『金剛頂経』(こんごうちょうきょう)というお経を絵でしめしたものです。もともと別々であった2つの曼荼羅が1つのセットとなり、空海はさらにその考えを発展させ、この2つの界(両界)が、大日如来という仏を中心とした密教の宇宙を表すと考えました。両界曼荼羅はお寺のお堂の壁にかけられ、その前で大事な儀式が行われました。

プリントの左下にあるのが、教王護国寺の金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)です。
金剛界曼荼羅とは、「金剛頂経」というお経をイラスト化したものです。
9つの正方形が3列ずつ集まって、1つの曼荼羅を形成している様子が分かりますね。
1番上の列の真ん中のブースにいる大きな仏さまが、大日如来です(他のブースにも描かれています)。
大日如来の智徳は金剛石(こんごうせき、ダイヤモンドのことです)のように強いんだ、ということや、
大日如来から修行者にどうやって智徳が流れるのか、などをこのイラストであらわしているのだそうです。

もう一度プリントを見てください。
いま見ていた金剛界曼荼羅の右隣にあるのが、
「大日経」というお経をイラスト化した胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)です。
こちらも教王護国寺のものです。
真ん中の大日如来を中心に、まわりに小さな仏さまが描かれているのが分かりますね。
胎児がお母さんのお腹のなかで成長していくように、
人間が悟りに進む姿をあらわしているのだそうです。

この金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅を、まとめて両界曼荼羅(りょうかいまんだら)といいます。
お寺で密教の法要などをおこなうときに、壁にかけたりするそうです。
弘仁・貞観文化のころの曼荼羅としては、教王護国寺のものと神護寺(じんごじ)のものが現存しています。

ちなみに空海は、イラスト化した曼荼羅をさらに分かりやすくするため、
教王護国寺の講堂に様々な仏像を配置した立体曼荼羅を作っています。
2Dの曼荼羅を、3Dにしちゃったわけです。
これがめちゃくちゃかっこいい!
ぜひ京都に行かれる際はご覧あれ。
プリントの彫刻のところ、⑤教王護国寺不動明王像は、その立体曼荼羅の1つです。

②園城寺不動明王像/黄不動(おんじょうじ ふどうみょうおうぞう/きふどう)
③青蓮院不動明王二童子像/青不動(しょうれんいん ふどうみょうおうにどうじぞう/あおふどう)
④高野山明王院不動明王像/赤不動(こうやさんみょうおういん ふどうみょうおうぞう/あかふどう)

このころ、密教を代表する仏さまである、不動明王(ふどうみょうおう)の絵がたくさん描かれます。
不動明王というのは、目を見開いて、キバを出し、めらめらの炎を背負って表現されることが多いです。
とにかくビジュアルはめっちゃ怒ってます。
それもそのはず、大日如来の怒った顔バージョンだ、とも言われているのです。
②の黄不動は、非公開のため画像がありません。
黄不動をマネして描いたとされるものが、曼殊院というお寺にありますので、
プリントにはそちらをかわりに掲載しています。
なお、③の青不動は国風文化に区分されたり、④の赤不動は鎌倉時代の作品だという説があったりで、
最近はこの2作品はあまり取り上げられなくなっています。

⑤西大寺十二天像(さいだいじ じゅうにてんぞう)も参考までに載せておきました。
9世紀に活躍した絵師としては、
百済河成(くだらのかわなり)や巨勢金岡(こせのかなおか)の名が伝わっています。

それでは、最後に解答を載せておきましょう。

平安4解答.jpg



次回からゴロ合わせを見ていきます。
藤原氏が他氏を排斥しまくるので、覚えることがいっぱいですよ~!
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平安時代(3) [まとめプリント]

2回にわたって、弘仁・貞観文化(こうにん・じょうがんぶんか)を取り上げます。



嵯峨天皇(弘仁年間)と清和天皇(貞観年間)の時代、平安京を中心にさかえた文化です。

平安3.jpg

特徴を簡単にまとめると、
・貴族を中心とした文化
・貴族の間で漢文学が発達
・密教の伝来
・晩年の唐文化の影響をうけた文化、です。

*   *   *

まずは宗教から見てゆきましょう。

①平安仏教

平安時代、あらたに密教(みっきょう)という教えが日本に伝来します。
密教とは、大日如来(だいにちにょらい)という仏さまが説いた、
奥が深すぎて人間にはなかなか明らかにできない秘密の教え、なのだそうです。

密教には、加持祈禱(かじきとう、正しい漢字はプリントで確認してください)によって
現世利益(げんぜりやく)を求める、という面があり、
皇族や貴族たちによって支持されます。

って、難しすぎて意味が分かりませんね…

とてもとても簡単に言ってしまうと、
この世での幸せ(現世利益)を期待して、
呪文をとなえたり、火をたいたりして仏さまにお祈りする(加持祈禱)ので、
皇族や貴族たちが密教を支持した、となります。

呪文をとなえたり、火をたいたりして仏さまにお祈りする…といえば、
シーズンオフのたびに広島カープの新井選手がやってますね。
あんな感じだと思ってください(分かります?)。

これまでの宗教、たとえば南都六宗はというと、仏教を研究するグループでしたね。
お経などで顕(あきら)かにされているお釈迦さまの考えを学ぶので、
密教に対して、これを顕教(けんぎょう)と呼びます。

では、密教を日本に初めて伝えたのは誰なのでしょう。

答えは、最澄(さいちょう)です。
死後、清和天皇(せいわてんのう)から伝教大師(でんぎょうだいし)という名を賜った人物です。

幼いころから国分寺で修行した最澄は、785年に東大寺で受戒し、正式なお坊さんになります。
その後、比叡山(ひえいざん)に小さなお寺(のちの延暦寺(えんりゃくじ))を建てて修行していたところ、
唐への短期留学生に選ばれます。
804年、遣唐使の1人として中国に渡り、天台山というところで中国の天台宗の教えや密教などを学びます。
そして、翌805年に帰国したのち日本で天台宗をひらき、比叡山延暦寺を拠点に活動するのです。

最澄は、法華経(ほけきょう)にあるように、人は誰もが「仏性(ぶっしょう)」をもつ、と説きます。
「仏性」とは、仏さまになれる性質のことなのだそうです。
すなわち最澄は、みんな仏さまになれる可能性をもっているんだよ、と説いたわけです。

また最澄は、大乗戒壇(だいじょうかいだん)創設の必要性を説きます。
戒壇とは、戒律を受ける場所のことでしたね。
当時、戒壇は東大寺・筑紫観世音寺・下野薬師寺にありました。
3つまとめて本朝三戒壇というんですよ、復習しておきましょうね。
この3か所のうち、いずれかで受戒をしなければ、当時は正式なお坊さんになれなかったのです。
前述のとおり、最澄も東大寺の戒壇で受戒をしています。

ところが最澄は、鑑真が伝えた戒律とはちがう戒律(大乗戒というものです)を授けるための、
天台宗オリジナルの戒壇、いわゆる大乗戒壇を延暦寺につくろうとするのです。

すると、もちろん南都六宗などと激しく対立することになります。
最澄は、『顕戒論(けんかいろん)』という本を著して、彼らに論駁(ろんばく)します。

平安3-2.jpg

822年、朝廷は延暦寺に大乗戒壇を設立することを許可します。
日本に4つめの戒壇が設立されたのです。
それは、最澄の死後7日目のことでした…
ちょっと最澄!あと1週間がんばんなよー!!と言いたくなりますね…残念……

次に、空海(くうかい)を見ていきましょう。
死後、醍醐天皇から賜った弘法大師(こうぼうだいし)という名でも知られる人物です。
「弘法にも筆の誤り」の「弘法」ですね。

讃岐(さぬき、現在の香川県)に生まれた空海は、役人になるため上京し、大学で学んでいましたが、
やがて仏教の修行に身を投じるようになります。
そして804年、最澄と同じタイミングで留学僧として中国にわたります。

ちなみに、このとき派遣された遣唐使船は4隻です。
空海は1つ目の船に、最澄は2つ目の船に乗り、それぞれ中国へたどりつきます。
しかし、3つ目・4つ目の船は途中で遭難し、中国にたどりつくことはできませんでした。
実に生存率50%…
遣唐使たちは、本当に命がけで中国にわたったのです…

さて、空海。

途中、船が嵐にあいつつもなんとか中国にたどりつき、
長安にある青竜寺(せいりゅうじ)で、恵果(けいか)というお坊さんから密教をがっつり学びます。
そして2年後、空海は帰国し、日本で真言宗をひらきます。
816年には、嵯峨天皇にお願いして高野山(こうやさん)を賜り、
ここに金剛峰寺(こんごうぶじ、「峰」の漢字は「峯」でもOK)を建てるのです。

ところで、空海はなぜ高野山を選んだのでしょう…

こんなおはなしが伝わっています。

まだ空海が中国にいたころ、彼は悩んでいました…
日本に帰ったあと、一体どこを拠点に自分が学んだ密教を広めればよいのか…と。

悩みをかかえる空海は、あるとき、「三鈷杵(さんこしょ)」という密教で使う金ピカの道具を手にしながら、
海岸を歩いていました…

そして!
次の瞬間!!

「どこを拠点にしたらいいのか教えてくれーっ!!」と、空海はその三鈷杵を日本に向かって投げたのです!!!
亡き師匠、恵果からいただいた大切な道具をです!!!!

で、空海帰国。

相変わらず悩みをかかえたまんまの空海が、高野山の近くを歩いていると、
「夜になると光る松があるんだよね」というウワサを耳にします。
なにそれ不思議!

試しにウワサの松を見に行ってみると…

な、なんと!

空海が中国の海岸から投げた三鈷杵が引っかかっているではないですか!!

平安3-1.jpg

ここを拠点に密教を広めればいいよ!と、亡き師匠がくれた三鈷杵が空海に教えてくれたのです。

これが、空海が高野山を選んだ理由です(諸説アリマス)。
金剛峰寺には、今でもその松が「三鈷の松」として保存されています。
信じるか信じないかはアナタ次第。
それにしても空海さん、肩つよすぎでしょ!大谷翔平もビックリだわ!!

さてその後、空海は、嵯峨天皇から平安京にある東寺(とうじ)を賜ります。
正式名称は、教王護国寺(きょうおうごこくじ)です。
空海はここに住居を構え、密教の根本道場とします。
ゆえに、真言宗の密教は「東密(とうみつ)」と呼ばれるようになるわけです。

「東密」に対して、天台宗の密教を「台密(たいみつ)」といいます。

最澄は中国で密教を学びましたが、実はそれはメジャーな密教ではなかったのです…
最澄は、メジャーな密教をすべて学んで帰ってきた空海の弟子となり、教えを請います。
しかし、空海にお経を借りることなどを繰り返した結果、二人の関係は壊れてしまいます…

最澄の死後、弟子の円仁(えんにん)と円珍(えんちん)が中国にわたって密教を学び、
天台宗に密教が本格的に取り入れられるようになります。
円仁は、中国での様子を『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』という日記にまとめています。

ところが、10世紀以降、円珍の弟子たちと円仁の弟子たちは対立するようになります。
円珍の弟子たちは比叡山をおりて、園城寺(おんじょうじ、または三井寺(みいでら))というお寺に入ります。
これを寺門派(じもんは)と呼びます。
一方、円仁の門流は比叡山にとどまりますので、これを山門派(さんもんは)と呼びます。
山門派か寺門派か、混同しないよう気をつけてくださいね。

②神仏習合(しんぶつしゅうごう)

神さま(神社)と仏さま(寺院)に対する信仰が、ごちゃまぜになってしまったものです。
天平文化でもちらっと出てきましたね。
このころになると神仏習合はさらに広まっており、
神社の中にお寺がつくられたり(これを神宮寺(じんぐうじ)と呼びます)、
お寺の中に神さまがまつられたり、
神さまの前でお経がとなえられたり…と、かなりごちゃまぜになっています。
まぁね、日本ってそうじゃないですか…
クリスマスを楽しんだ1週間後に神社へ初詣に行ったりね、
チャペルで結婚式あげて、お寺でお葬式したりね、
神仏習合は、そんな日本ならではのごちゃまぜの宗教観だと思ってください(笑)

③修験道(しゅげんどう)

山にこもって厳しい修行をして悟りをひらこうとする山岳信仰に、仏教が結びついた宗教です。
修験道を修行する人を、山伏(やまぶし)と呼びます。
天狗(てんぐ)みたいな格好をした人、といえばイメージわきますかね?

ちなみに私、数年前に1日修験道体験をしました…
ボンノーがうずまいていたので、ちょっときれいになろうかな、と(笑)

山伏さんと一緒に山をひたすら登り、ロープをつたって岩場を進み、
いざ山の頂上付近にある崖へ。
崖から上半身を出した状態で、うつぶせに寝かされ、
山伏さんから「真面目に仕事をするかァァァ!!」などと聞かれました。
もうね、「ウワー!ごめんなさーい!!しますしますしますー!!!」ですよ。
いや、仕事は真面目にしていましけどね。
なんてったって、崖から見えるふもとの人間がアリサイズでしたからね…怖かった……
そして最後は滝にうたれる…というフルコース。
マッパダカの上に、濡れてもそれなりに透けない白い衣をつけて、滝のある川に入ります。
(水着持参で行ってみましたが、ダメデスと言われました…そりゃそうか……)
数日前に大雨が降ったせいで、その滝が瀑布っておりまして、
滝にうたれている間、ずっと頭を力いっぱいどつかれてる感覚でした…
でもなんかすごく心が清められた気がしましたよ、うん。
これが修験道なのか…と、ちょっぴり分かった気分になりました。

*   *   *

続いて、教育を見ていきましょう。

①貴族の教育

このころ、貴族の子弟は、中央に置かれた大学で勉強しているのでしたね。
大学ではとくに、儒教を学ぶ明経道(みょうぎょうどう)や、
中国の歴史や文学を学ぶ紀伝道(きでんどう)が重視されています。

9世紀ごろ、貴族たちは大学で学ぶ子どもたちのために、大学別曹(だいがくべっそう)を設けます。
これは大学の近くにつくった寄宿舎です。
「別荘」ではありませんよ!「別曹」です。
一族の子どもたちをここに住まわせて、勉強しやすい環境をつくってあげるわけです。
和気(わけ)氏は弘文院(こうぶんいん)、
藤原氏は勧学院(かんがくいん)、
橘(たちばな)氏は学館院(がっかんいん)、
在原(ありわら)氏は奨学院(しょうがくいん)、という名前のものをつくります。

②庶民の教育

当時の教育機関である大学・国学は、貴族や郡司の子弟のためのものであり、
庶民が学ぶための場所ではありません。
そこで空海は、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)という学校を平安京につくります。
どこまで実現できたかは分かりませんが、
空海には、貧しい人も学べるよう無料で給食を出す構想もあったようです。

*   *   *

最後に学問を見ておきましょう。

①漢詩文集

このころ、「文学がさかえると国家の経営がうまくゆき、国家がさかえる」という文章経国(もんじょうけいこく)の思想から、
漢文学がさかんになります。
漢詩文をつくることが、貴族の教養とされたのです。

嵯峨天皇は、すぐれた漢詩文をあつめた本を編纂するよう、小野岑守(おののみねもり)らに命じます。
こうして、最初の勅撰漢詩文集(勅撰漢詩集でもOK)である『凌雲集(りょううんしゅう)』が成立します。
「凌」の字はサンズイではなく、ニスイですからね、気をつけてください。
続いて嵯峨天皇は、もう1冊、勅撰漢詩文集を編纂するよう命じ、
藤原冬嗣らによって『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』が成立します。
のち、嵯峨天皇の弟である淳和天皇(じゅんなてんのう)が編纂を命じた『経国集(けいこくしゅう)』とあわせて、
3つの勅撰漢詩文集が成立します。

なお、勅撰というのは、天皇が編纂を命じたもの、ということですからね。
その本が漢詩文集なら勅撰漢詩文集、和歌集ならば勅撰和歌集、となるわけです。

勅撰ではないそのほかの漢詩文集としては、
空海の漢詩や書簡などを、弟子の真済(しんぜい)がまとめた『性霊集(しょうりょうしゅう)』、
菅原道真(すがわらのみちざね)が自らの漢詩を本にまとめて、醍醐天皇(だいごてんのう)にプレゼントした『菅家文草(かんけぶんそう)』などがあります。

ちなみに嵯峨天皇は、平安宮にある門や建物の名前を中国風に改めたり、
宮廷の儀式に中国風のテイストを取り入れたりするなど、唐風(とうふう)を重んじた天皇でもあります。

②詩論

詩論とは、詩についての評論のことです。
中国に留学したことのある空海が、『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』という本で、
漢詩文を作成するにあたっての評論をまとめています。

③史書

菅原道真は、六国史の内容を、部門別に分類し、
『類聚国史(るいじゅうこくし)』という本を著しています。
ちなみに「類聚」とは、同じ種類のものを聚(あつ)める、という意味です。

④説話集

822年ごろ、薬師寺のお坊さんである景戒(けいかい、または、きょうかい)によって、
現存する日本最古の説話集である『日本霊異記(にほんりょういき)』が成立します。
正式名称は『日本国現報善悪霊異記(にほんこくげんほうぜんあくりょういき)』です。
善いことをしたら善い報(むく)いが、悪いことをしたら悪い報いがあるよ…という、
仏教の影響を受けた、いわゆる因果応報を説いたストーリーが多く収録されています。
いくつか古典の授業で習ったことがあるのではないでしょうか…?

⑤日記

前述しましたが、円仁の『入唐求法巡礼行記』がこのころ成立しています。

とてもとても長くなりました…
最後に解答を載せておきましょう。

平安3解答.jpg



次回は、弘仁・貞観文化の2回目、建築や美術を取り上げます。
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